あめつちの詞

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あめつちの詞(あめつちのことば)とは、仮名48字からなる誦文のこと。単にあめつちともいう。今日までの国語学言語学における研究では、平安時代初期に作られたとされている。

解説[編集]

あめつちの詞が出てくるもっとも古い例は、 源順911年 - 983年)の私家集『源順集』である。その中に、あめつちの詞の仮名を以下のようにはじめと終りに置いて詠んだ「あめつちの歌」があり[1]、和歌の内容を春・夏・秋・冬・思・恋の構成としてそれぞれ8首、合わせて48首が収められている。

らさじと うちかへすらし をやまだの なはしろみづに ぬれてつくる[2]
もはるに ゆきまもあをく なりにけり いまこそのべに わかなつみて
くばやま さけるさくらの にほひをぞ いりてをらねど よそながらみ
ぐさにも ほころぶはなの しげきかな いづらあをやぎ ぬひしいとす[3]

以下は略すが、これによってあめつちの詞を復元すると次のようになる。

あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて

見られるようにおおむね2音節の言葉を連ねており、冒頭から「さる」までは、「天 地 星 空 山 川 峰 谷 雲 霧 室 苔 人 犬 上 末 硫黄[4] 猿」という言葉を並べたものとみられるが、それ以降の「おふせよ えのえを なれゐて」は意味不明な語の羅列になっていて形式的にも破綻している。その理由については不明であり、「おふせよ」以下にどのような言葉を当てはめるかについても諸説あって定かではないが[5]、一般には大矢透による「生ふせよ 榎の枝を 馴れ居て」という解釈が広まっている。またいろは歌と同様、同じ仮名を二度使わずに構成しているが、「えのえを」で「え」が二つあるのは、ア行の「」とヤ行の「え」の区別を示すものと考えられることから、この区別が残っていた平安時代初期(900年前後)までに成立したと推測されている。なお「あめつちの歌」ではふたつの「え」を置いた歌は2首とも副詞の「え」、すなわちア行の「え」で始まっている[6]

このあめつちの詞は『千字文』を意識して作られたともいう。また10世紀半ばには成立していたとみられる『宇津保物語』の「国譲」の巻に手習いの手本、すなわち毛筆で仮名を書くための手本としてその名が見え、それによりあめつちの詞は手習いに使われたといわれる[7]。しかし現存する『宇津保物語』の諸伝本においては、その例とされる箇所の本文の異同が激しく、本来それがあめつちの詞を意味していたのかどうかはっきりしない[8]。従ってその当時、実際に手習いに使われていたのかどうかも不明である。そもそも手習いをするための手本としては、「なにはづ」や「あさかやま」の歌があり(仮名を習得するための和歌参照)、たとえあめつちの詞が手習いに使用されることがあったとしても、一般的なことではなかっただろうという指摘がある[9]。ただしのちの南北朝時代の『古今集序註』(北畠親房著)には、あめつちの詞がいろは歌の仏教的な内容を嫌う人々の間で、手習いに用いられたと記されている。

天禄元年(970年)の序文を持つ『口遊』に収録される大為爾の歌には、以下の文がその注釈として記されている。

今案世俗誦曰阿女都千保之曽里女之訛説也 此誦為勝
(今案ずるに、世俗誦して阿女都千保之曽〈あめつちほしそ〉と曰ふ。里女の訛説なり〈訛りのひどい田舎女の口癖のようだの意〉。此の誦〈大為爾の歌〉を勝れたりとす)

小松英雄は、あめつちの詞とは当時の漢字音、特に二字熟語アクセントを習得させるために作られたものであり、それは「あめ」や「つち」といった日本語が備えているアクセントを、そのまま漢字音のアクセントに置き換えて覚えさせるためのものであったとしている。

たとえば現代では、「協会」と「境界」をいずれも同じアクセントで「キョウカイ」と声に出しているが、ほんらい漢字にはそれぞれの文字ひとつひとつに四声というアクセントがあり、四声は6種類の型に分けられる。平安時代ではこの四声のアクセントの通りに、漢字を発音しなければならなかった。あめつちの詞は唱えることによって漢字のアクセントの型を、この漢字のアクセントは日本語の「あめ」のアクセントと同じ、というように覚えさせるものであった。二字熟語では漢字二つが連なることでさらにアクセントの型は複雑になるが、それも「あめつち」など仮名四文字の単位にして唱えれば、日本語のアクセントに置き換えて覚えることができる。そして更にいろいろなアクセントの型を取り出すため、あえて日本語としての意味を断ち、以下のように七字区切りにして用いられたと小松英雄は推測している。

あめつちほしそ

らやまかはみね

たにくもきりむ

ろこけひといぬ

うへすゑゆわさ

るおふせよえの

えをなれゐて

したがって『口遊』に収録される大為爾の歌の注釈文で「阿女都千保之曽」(あめつちほしそ)とするのは、そのように使われていたことを示すものであるとした。だがあめつちの詞はその末尾が「おふせよ えのえを なれゐて」と意味不明な形になっており、それに対して大為爾の歌は一応文脈らしきものを持ち最後まで内容が整っていることから、「此誦為勝」とされたという。大為爾の歌もあめつちの詞やいろは歌と同じく、アクセント習得のために仮名を網羅した誦文として作られたと見られるが、大為爾の歌は結局世に広まることは無く、それに比べてあめつちの詞はいろは歌ほどではないにしろ、後世に伝わることになったのである。

脚注[編集]

  1. ^ 『源順集』にはほかにも「双六の歌」、「碁盤の歌」というものがあり、これはそれぞれ双六盤や碁盤の形に和歌を並べて詠むという、一種のクロスワードパズルのようなものである。その中の「あめつちの歌」というのは「あめつちの詞」を詠み込んだ和歌ということであり、あめつちの詞が当時「あめつちの歌」と呼ばれていたわけではない。
  2. ^ この末尾の「あ」とは畔(あぜ)のことで、「あぜ」の古い語形。
  3. ^ 以上本文は御所本『順集』に拠る。
  4. ^ 源順が編纂した『和名類聚抄』には「硫黄」の項目にその注として、「硫黄」の和名を「由乃阿和」(ゆのあわ)、俗に「ユワウ」と呼ぶと記されており、これにより「ゆわ」とは硫黄の事とされている。硫黄を「ユワウ」というのは、日本語には本来語頭にラ行の音を持つ言葉が存在せず、古代日本において漢語「硫黄」が入ってきたとき、「リウワウ」と発音することができずにこのように変化したもので、現在でもこの語を「いおう」と読むのはその名残である。『いろはうた』(中公新書、1979年)104頁参照。
  5. ^ 大矢透は「おふせよ」以下を「生育(おふ)せよ 榎の枝を 馴れ居て」と解釈しているが、中田祝夫は「負ふ 背よ 良箆(えの) 愛男(えを) 汝(なれ) 偃(ゐて)」としており、他にも「えの」は「江野」、「ゐて」は「率て」ではないかという意見もあり(馬渕和夫)、この部分に確たる解釈はない。
  6. ^ 御所本より。
    もいはで こひのみわたる わがみかな いつとやいそに おふるまつが
    もわかぬ なみだのかはの はてはてや しゐてこひしき やまひつくま
  7. ^ 「洞物語〔国禅ノ巻〕に仲忠の書て孫王に奉れる御手本の書ざまをいへるところに、春の詩夏の詩あめつちとみえたるも、此あめつちの文の事なるべし。〔割註〕但しこの物語本ども、あめつちの下に、その字一つ衍(アマ)れり。或校本になきぞよき、本書をよくよみわきまへて知べし」(伴信友著『比古婆衣』巻之四、「安米都知誦文考」)。大矢透も『音図及手習詞歌考』でこの「安米都知誦文考」について触れ、『宇津保物語』の「国譲」の巻から本文を引用し、あめつちの詞が手習いに用いられたとしている。
  8. ^ 日本古典文学大系』12の『宇津保物語』の校異によれば、あめつちの詞を指すとされる箇所は伝本によって「あめつちそ」、「あつめつちそ」、「あつめかきて」などとある。また「あめつちそ」とあるのが本来だと見なしても、末尾の「そ」が何なのか定かではない。これを助詞の「ぞ」と見て「あめつちぞ」とする解釈もあるが、原文での言葉の使い方において問題が残る。上記『比古婆衣』の「あめつちの下に、その字一つ衍れり」というのは、「あめつちそ」のあとに続く文章が「そのつぎに…」なので、これは「そのつぎ」の「そ」の字を誤って二度書き写してしまったものであり、「あめつち」とするのが本来だということである。「あめつちほしそ」とあったのが、「ほし」を書き落として「あめつちそ」になったのではないかとする見方もある。
  9. ^ 『いろはうた』(中公新書、1979年)108頁以降「阿女都千と手習」、「手習のありかた」参照。

参考文献[編集]

  • 伴信友 『比古婆衣』〈『日本随筆大成』第二期巻七〉 日本随筆大成刊行会、1928年
  • 橋本不美男編 『順集』〈『御所本三十六人集』23〉 新典社、1970年 ※影印本
  • 小松英雄 『いろはうた』〈『中公新書』558〉 中央公論社、1979年
  • 河野多麻校注 『宇津保物語 三』〈『日本古典文学大系』12〉 岩波書店、1988年

関連項目[編集]