鳥居忠恒
鳥居 忠恒(とりい ただつね、1604年(慶長9年)- 1636年8月7日(寛永13年7月7日))は、出羽国山形藩の第2代藩主。壬生藩鳥居家2代。
生涯
初代藩主・鳥居忠政の長男。正室は森忠政の娘。官位は従四位下、伊賀守、左京亮。
寛永5年(1628年)、父の死により家督を継ぐ。しかし生来から病弱で幕府の任にほとんど勤めることができなかった[1]。
寛永9年(1632年)、徳川忠長が改易されると、その付家老であった鳥居忠房のお預かりを命ぜられる。
正室はあったが嗣子が無く、異母弟に鳥居忠春がいたがその生母と仲が悪かったため[注釈 1]、死に臨んで彼を養子とせず、同腹弟で戸沢家に養嗣子として入っていた戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨み後の事を考慮しなかったとして幕府の嫌疑を招いた[1]。寛永13年(1636年)7月7日、33歳で死去した[1]。
この事態に関して大政参与の井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(寛政重修諸家譜)として、所領没収となった。ただし、鳥居忠政と井伊直勝(直孝の兄)の時に正室の処遇をめぐって両家は対立しており、直孝もその旧怨から鳥居家を改易に追い込んだという説もある[注釈 2]
鳥居氏の先祖・鳥居元忠の功績が考慮され、忠春に新知として信濃高遠藩3万石を与えることで家名を存続させた[2]。
脚注
注釈
- ^ 忠春の母は心の狭い身勝手な性格で、忠恒が実母のように孝養を尽くしたにも関わらず、家督を忠春に譲らない事を恨んで天徳寺に走って訴えようとした。忠恒は彼女を説得して連れ戻したがこのために不仲になった(徳川実紀)。
- ^ 『徳川実紀』
引用元
参考文献
- 長谷川正次『シリーズ藩物語、高遠藩』(現代書館、2005年11月) ISBN 476847103X