高田六郎

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高田 六郎(たかた[注 1] ろくろう、1887年明治20年)4月7日[1][2][3] - 1943年昭和18年)4月18日[1][2][3])は、日本の海軍軍人医師。最終階級は海軍軍医中将

履歴

1887年(明治20年)、茨城県に生まれる[2]。旧制水戸中学を経て[3]1912年大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る[2][3]。在学中海軍軍医学生になる[2]1916年(大正5年)5月、卒業[3]。海軍少軍医となり[2]海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ[2][3]

横須賀工廠医務部員、大井球磨の各軍医長となり[3]、呉病院、呉工廠勤務[3]1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み[2][3]海軍兵学校軍医長兼教官となる[2][3]。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任[2][3]広工廠医務部長[3]1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり[2][3]1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した[2]。11月に海軍軍医少将に進み[3]、間もなく連合艦隊軍医長に就任した[1][2]

1943年(昭和18年)4月連合艦隊司令長官山本五十六の前線視察に同行。山本と同じ一式陸攻に乗っていたためP-38ライトニング戦闘機に撃墜され戦死した(海軍甲事件[1][2][3]。戦死後、海軍軍医中将に特進した[2][3]

脚注

注釈

  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、225頁では「たかだ」と記載。

出典

  1. ^ a b c d 『日本海軍将官辞典』223頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o The page31. (ヒト-大正5年以降任官軍医科士官)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、225頁。

関連項目

参考資料

  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。