風外慧薫

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風外 慧薫(ふうがい えくん、1568年永禄11年)- 1650年慶安3年))は、江戸時代前期の曹洞宗[1]絵仏師[2]である。

経歴・人物[編集]

風外慧薫が制作したとされている「達磨図」

上野碓氷郡土塩村に生まれる[2]。若くして修行[2]相模小田原成願寺の住職となった[1][2]。数年後には、曾我山中の洞窟にて達磨布袋等の肖像画を描き、絵仏師として活動したとされている[2]。また、この頃には穴風外や古風外といった俗称も生まれた[3]

後に真鶴竹渓院で住職となり、遠江石岡と転々と移住する[2]。晩年には、自ら青銅を建てるために穴を掘って[3]、そのまま入滅したと伝えられている[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『風外慧薫』- コトバンク
  2. ^ a b c d e f 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『風外慧薫』- コトバンク
  3. ^ a b c 美術人名事典(思文閣)『風外慧薫』- コトバンク

外部リンク[編集]