青木鶴子
あおき つるこ 青木 鶴子 | |
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生年月日 | 1889年9月9日 |
没年月日 | 1961年10月18日(72歳没) |
出生地 | 日本 福岡県福岡市 |
職業 | 女優 |
配偶者 | 早川雪洲 |
青木 鶴子(あおき つるこ、1889年9月9日 - 1961年10月18日)は、無声映画時代にアメリカ合衆国で活躍した日本出身の女優。アメリカにおいて、アジア人として自分の名を冠した映画をもち、映画ポスターに名を飾った初の俳優である。川上音二郎の姪。青木ツル、青木つる(子)、早川鶴子とも。女優名はTsuru Aoki。
略歴
1889年、福岡市に生まれる。父親は漁師、母親は川上カツといい、川上音二郎の妹。1899年に音二郎、貞奴ら川上一座とともに渡米し、サンフランシスコで一座の子役として舞台に立つ。一座が金を持ち逃げされ、経済的にひっ迫したため、パサデナ在住の画家・青木瓢斎(本名・年雄、1853-1912) の養女になる。青木は現地で日本画家として成功しており、子がなかったため、見かねて養子を申し出たという。富裕な顧客を多く持ち、経済的に恵まれていたため、鶴子はコロラド・スプリングスのボーディングスクールにも通った[1]。
幼いころから演技を始め、1910年代にはハリウッド映画に出演しはじめた。1913年には主演映画『ツルさんの誓い(The Oath of Tsuru San)』に出演[2]。1914年の映画『台風(The Tyhoon)』で早川雪洲と共演したことがきっかけで(鶴子主演の『おミミさん』の説も)、結婚した[3]。結婚直後、フランク・ボーゼイジと共演した『The Wrath of the Gods』が封切られ、人種を超えた恋物語が大いに受けてヒットした。
早川と鶴子は、1918年にHaworth Picturesという映画会社を興し、しばしば二人で共演した[4]。二人の映画は好調で、ハリウッド・ヒルズの豪邸に住み[5]、二人の優雅な私生活はたびたび映画雑誌などで報じられた[6]。1910年代に出演した約40本の映画ではいずれも主役級であり、アジア人としては初のスター女優だった。
日本人排斥運動などの高まりで、1920年代に入ると人気が陰りはじめ、早川とともにフランスで仕事を始めた。1923年にいったんアメリカへ帰国したが、二、三の出演作があるのみで、映画界を引退し、仕事の拠点をフランスに変えた早川に代わって、早川が他の女性との間にもうけた3人の子の母親として家庭に入った。1933年、長男・雪夫(1929-2001年。実母は早川劇団のアメリカ人女優だが鶴子が育てた。晩年の20年はロサンゼルスで羅府新報に勤務)を連れて日本へ帰国。1961年に腹膜炎のため日本で死去。72歳没。
関連作品
脚注
- ^ Asian American Art: A History, 1850-1970 Gordon H. Chang,Mark Dean Johnson,Paul J. Karlstrom,Sharon Spain Stanford University Press, 2008
- ^ An Encyclopedic Dictionary of Women in Early American Films: 1895-1930 Denise Lowe Routledge, 2005
- ^ America's Film Legacy: Daniel Eagan Continuum International Publishing Group, 2010
- ^ Unspeakable Images: Ethnicity and the American Cinema Lester D. Friedman University of Illinois Press, 1991
- ^ Slow Fade to Black Thomas Cripps Oxford University Press, 1977
- ^ Flickers of Desire: Movie Stars of the 1910s Jennifer M. Bean Rutgers University Press, 2011
関連項目
外部リンク
- Tsuruko Aoki: Wife, Lover, Transcultural Star by Bryan Hikari Hartzheim - 鶴子の生涯を扱った映像エッセイ
- Tsuru Aoki - IMDb(英語)
- 青木鶴子 - allcinema
- 青木鶴子 - オールムービー(英語)