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閻圃

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閻 圃(えん ほ、生没年不詳)は、後漢時代末期から三国時代の政治家。益州巴西郡の人。子に閻璞、孫に閻纘。

正史の事跡

姓名 閻圃
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 益州巴西郡安漢県
職官 功曹〔張魯〕→建節将軍〔
爵位・号等 列侯〔曹操〕→平楽亭侯〔魏〕
陣営・所属等 張魯曹操曹丕曹叡
家族・一族 子:閻璞 孫:閻纉

後漢末期に、漢中を支配していた張魯に仕えた。漢中の住民が張魯に玉印を献上したとき、張魯は漢寧王を名乗ろうとしたが、閻圃はこれを諫めている。

建安20年(215年)、曹操が漢中に攻め込み、陽安関を陥落させた。張魯は慌てて降伏しようとしたが、これに対して閻圃は抗戦を主張した。ただしそれは勝算があってのことではなく、一度も戦わずに降伏すれば、曹操から軽く見られるという判断からであった。張魯はこれを受け入れて巴中へ逃れ、その後、南鄭へ入城した曹操が使者を張魯の下に派遣してくると、張魯と共に降伏した。

これらの閻圃の実績は曹操から高く評価され、曹操にとって陪臣であったにも関わらず、閻圃は張魯と共に平樂郷侯に封じられた。同時に馬超の妾であった董氏も与えられている(董氏の子であった馬秋は、張魯に殺害された)。

黄初年間に閻圃は爵位・領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分になったという。その後10年余りで死去したとあるため、没年は230年代前半と推測される。

『新唐書』宰相世系表によれば閻圃の一族は後の王朝でも活躍しており、唐代には宰相であり画家でもある閻立本を輩出している。

演義の閻圃

小説『三国志演義』でも閻圃は張魯の幕僚として登場する。しかし史実とは逆に、劉璋を倒した上で張魯に王位につくよう進言している。曹操が漢中に進攻してくると、張魯に防衛の将として龐徳の起用を進言するが、同僚の楊松の讒言で張魯は龐徳を斬ろうとする。閻圃は懸命にこれを弁護している。その後、最終的に曹操に降伏し、列侯に封じられるところは、史実と同様である。

参考文献