閻圃

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閻 圃(えん ほ、? - 230年頃)は、中国後漢時代末期から三国時代の政治家。益州巴西郡の人。孫に閻纘。

[編集] 正史の事跡

姓名 閻圃
時代 後漢時代~三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 益州巴西郡
職官 功曹
爵位・号等 列侯
陣営・所属等 張魯曹操曹丕曹叡
家族・一族 孫:閻纘

後漢末期に漢中を支配していた張魯の功曹として仕えた。漢中の住民が玉印を献上してきたとき、張魯は漢中における勢力を背景にして漢寧王を名乗ろうとしたが、閻圃はこれを諫めて止めさせている。

建安20年(215年)に曹操が大軍を率いて漢中に攻め込み、陽平関を陥落させると、慌てて降伏しようとした張魯に対して閻圃は抗戦を主張した。ただし、それは勝算があってのことではなく、一度も戦わずに降伏すれば、曹操から軽く見られるという判断からであった。張魯はこれを受け入れて巴中へ逃れた。

張魯の弟張衛が戦意を喪失して降伏し、南鄭へ入城した曹操が使者を張魯の下に派遣して後、ようやく張魯と閻圃は降伏した。これらの実績を曹操から高く評価されて、降伏後、曹操にとって閻圃は陪臣であったにも関わらず、張魯と共に列侯に封じられ、同時に馬超の妾であった董氏も与えられたのである(董氏の子である馬秋は、張魯に殺害された)。

黄初年間に、閻圃は爵位・領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分になったという。その後10年余りで死去したとあるため、没年は、230年代前半と推測される。

[編集] 物語中の閻圃

演義』でも、閻圃は張魯の幕僚として登場する。しかし史実とは逆に、閻圃は、蜀の劉璋を倒した上で張魯に王位につくよう進言している。曹操が漢中に進攻してくると、張魯に防衛の将として龐徳の起用を進言し、同僚の楊松の讒言で張魯が龐徳を斬ろうとすると、閻圃は懸命にこれを弁護した。その後、最終的に曹操に降伏し、列侯に封じられるところは、史実と同様である。

[編集] 参考文献

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