ホウ徳
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| 本来の表記は「龐徳」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
龐 徳(ほう とく、? - 219年)は、後漢末期に馬騰、馬超親子と曹操に仕えた武将。字は令明。龐会の父、龐柔の従弟。龐悳とも表記される。
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[編集] 略歴
[編集] 西涼の勇士
南安郡狟道県の人。若くして初めは馬騰に仕え、羌族や氐族を撃退する功績を挙げる。平陽では袁尚の配下の郭援を自ら討ち取った。この功績により、都亭侯に封ぜられ、中郎将に昇進する。張白騎が、弘農で反乱を起こすと、馬騰に従って、張白騎を討伐した。龐徳は戦うごとに陣を陥れ敵を退け、武勇は馬騰軍随一であった。
馬騰が殺されると、次いで息子の馬超に仕えた。馬超が曹操と戦って敗れると、冀城を死守した。龐徳は215年、曹操が漢中郡を平定した時、張魯と共に曹操に降伏し、その家臣となった。馬超は後に張魯と袂を分かれて劉備に仕えることとなるが、龐徳は同行していない。龐徳は曹操に信頼され、関門亭侯に封じられ、立義将軍に昇進、所領数を三百戸とした。
[編集] 忠節に死す
宛城で侯音や衛開らが反乱を起こすと、曹仁と組んで鎮圧し、侯音と衛開を処刑し、続いて樊城に駐留した。龐徳には従兄の龐柔(演義では兄)と旧君の馬超が蜀にいたことから、樊城の諸将達は彼を疑った。
龐徳は常々「私は国のご恩を受け、命を懸けることで義をおこなうものである。この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と語っていた。後に関羽と戦ってその額当てを射当てた。当時、龐徳は白馬に乗るのを常とし、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。
樊城での関羽との交戦中、長雨の影響で漢水が氾濫し平地が水没してしまい関羽の船によって攻撃を仕掛けられることとなる。配下の董衡・董超が関羽に降ろうしたため龐徳はこれを殺し、水没していない丘に登り、弓矢による反撃を続けた。雨はさらに酷くなり、関羽の攻撃も熾烈を極めた為、兵はこぞって降伏してしまったが、龐徳は濁流の中で単身小舟に乗り、決して諦めずに関羽軍に対して苛烈な抵抗を続けた。しかし、水の勢いで龐徳の小舟が転覆してしまったところをついに捕縛された。
このとき龐徳は「我は国家の鬼となり、賊将にはならぬ」と延べ、曹操への忠義を貫いて関羽によって首を討たれた。関羽は敵ながらその忠節に感嘆し、見事であると讃えた。
曹操は宿将于禁が関羽に降伏してしまったことと、龐徳の死に様を対比し、「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いた)新参の龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と語った。
龐徳はその忠義を高く評価され、のちに曹丕に壮侯と諡され、子も爵位を賜ることとなった。
[編集] 演義における龐徳
小説『三国志演義』において、馬超と共に活躍したが、馬超が劉備との戦いの際に病気により同行できず馬超が劉備に下った後も張魯の元にいた。
曹操が漢中平定を目論み攻め込んできた際に張魯の軍勢として出陣し、夏侯淵、許褚と一進一退の攻防を行った。それを見た曹操が殺すのは惜しいとして、張魯の部下の楊松を買収して張魯と仲違いさせ、やむなく曹操の元へ下った。
関羽征討戦では次のように描かれている。まず龐徳は自らが裏切るかもしれないという疑念を晴らすため、戦に赴く前に自らの棺を用意し、自らの命に代えてでも関羽を討つという意思を示し、曹操もそれを聞いて絶賛した。
新参ということで将軍が于禁、副将が龐徳となったが、両者は折り合いが悪かった。初め龐徳は戦局を優位に進めていたが、于禁は功を焦ったのか撤退命令を出した。魏の援軍はこの虚を突かれ水攻めを喰らって大敗し、于禁、龐徳ともに生け捕られる。この時、龐徳を水の中で捕らえたのは周倉となっている。
その後は史実同様、龐徳は忠義を貫き通し関羽自らの手によって処刑され、于禁は命乞いをし、後に呉により本国に送り返されることとなる。

