関原弥里

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関原弥里

関原 弥里(せきはら わたり、1853年4月13日嘉永6年3月6日[1]) - 1932年昭和7年)2月23日[2][1])は、明治から大正時代の政治家教員衆議院議員(1期)。

経歴[編集]

関原広喜の長男として出羽国飽海郡中山村(旧松嶺)[注 1]に生まれる[1]1875年(明治8年)宮城県師範学校を卒業し、酒田県および鶴岡県の伝習学校にて一等訓導として勤務する[1]。その後、朝暘学校勤務を経て、1877年(明治10年)鶴岡変則学校(現山形県立鶴岡南高等学校)が開校すると同教員となる[1]。翌年、山形県師範学校に転じ、1882年(明治15年)より東京師範学校に学んだ[1]1884年(明治17年)山形県師範学校兼山形中学校(現山形県立山形東高等学校)三等教諭となったのち、翌年、山形県学務課に奉職した[1]

同学務課長を経て、1898年(明治31年)東田川郡長となり15余年在任する[1]。在任中は、水田の開墾、水力発電所の建設などに功績を挙げ名郡長と称された[1]1914年(大正3年)には最上郡長に転じた[1]1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では山形県郡部から出馬し当選[2]。衆議院議員を1期務めた[2]。晩年は各種事業に失敗し仙台で没した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 原文まま。

出典[編集]

参考文献[編集]