間部詮昌

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間部 詮昌
時代 江戸時代後期
生誕 文化7年10月15日1810年11月11日
死没 慶応3年8月13日1867年9月10日
別名 熊之助、熊五郎、熊一郎、熊斉
幕府 江戸幕府 小姓小納戸
主君 徳川家慶家定家茂
氏族 間部氏
父母 父:間部詮邦、母:松平定胤の娘
兄弟 詮昌、男子(早世)、詮常(早世)、詮直、女子(早世)、女子(山岡景英妻)、詮由、男子(早世)、女子(早世)、詮論、女子
伊賀保誠昭の娘
実子:詮得(早世)、他5人(早世)
養子:詮論
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間部 詮昌(まなべあきしげ)は、江戸時代後期の旗本本所間部家当主・間部詮邦の長男。

生涯

文化7年(1810年)10月、間部詮邦の長男として生まれる。文政10年(1827年)9月、徳川家斉に初めて拝謁する。天保8年(1837年)11月、本所間部家の家督と遺領を継ぐ。天保10年(1839年)4月、小姓。[1]安政6年(1859年)12月、小納戸になり切米300俵を支給された[2]。詮昌の実子はみな早逝してしまったので、弟の詮論を養嗣子にむかえた。文久3年(1863年)12月、家督を養子の詮論に譲る。慶応3年(1867年)8月、死去。享年58歳。

当時の財政状況

天保13年(1842年)12月、知行所側が本所間部家の一年間の生計を見積もった「地頭間部氏一か年暮方見積り覚帳」[3](以下「見積り帳」と略記)という史料を作成しており、これによって当時の財政状況を伺うことができる。ただし、この史料はあくまで見積りなので、実際の生計費を示しているわけではないことをあらかじめ留意する必要がある。「見積り帳」によると、天保13年度の収入額は年貢高を金換算して653両余。支出額は、生活費や家来への給料等で311両余、それに加えて借金の元利返済等で593両余、計904両余である。つまり、この年は251両余の赤字になる見積りだったというわけである。[4]この史料からわかるように、当時の本所間部家は財政難だった。そのため、本所間部家は無駄な支出を削減したり[5]、金策のため知行所に対して無尽講を開くよう命じるなど[6]、財政再建の対策を講じたが、結局、この困窮状態を打開できないまま明治維新を迎えることになる。

脚注

  1. ^ 系譜(間部氏系譜)
  2. ^ 安政6年の小納戸入りを『寛政譜以降旗本家百科事典』では間部季三郎(※詮論)の項目に書かれているがこれは誤りで、年代からして養父詮昌の事績である。
  3. ^ 神奈川県企画調査部県史編纂室 1976, pp. 264–278.
  4. ^ 「見積り帳」と「地頭間部氏総知行地年貢上納仮積り帳」(伊勢原市編纂委員会、1992年、pp511-527.)によると、本所間部家は少なくとも幕府の公金貸付機関である馬喰町御貸付役所と知行所の村々から借金をしていた。
  5. ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983, pp. 432–440.
  6. ^ 伊勢原市史編纂委員会 & 1992年, pp. 536–537.

参考文献

  • 伊勢原市史編纂委員会編『伊勢原市史』資料編近世1、伊勢原市、1992年。
  • 小川恭一編『江戸幕府旗本人名事典』第五巻、原書房、1989年。
  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第五巻、東洋書林、1998年。
  • 神奈川県企画調査部県史編纂室編『神奈川県史』資料編8近世(5上)、財団法人神奈川県弘済会、1976年。
  • 神奈川県県民部県史編纂室編『神奈川県史』通史編3近世(2)財団法人神奈川県弘済会、1983年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について 」(『地域史研究と歴史教育 : 森山恒雄教授退官記念論文集』)亜紀書房、1998年。