銃後と前線記念碑

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銃後と前線記念碑
Памятник «Тыл и фронт»
銃後と前線記念碑

地図

銃後と前線記念碑の位置(チェリャビンスク州内)
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑 (チェリャビンスク州)
銃後と前線記念碑の位置(ヨーロッパロシア内)
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑 (ヨーロッパロシア)
銃後と前線記念碑の位置(ロシア内)
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑
銃後と前線記念碑 (ロシア)
座標 北緯53度24分26.0秒 東経58度59分32.7秒 / 北緯53.407222度 東経58.992417度 / 53.407222; 58.992417座標: 北緯53度24分26.0秒 東経58度59分32.7秒 / 北緯53.407222度 東経58.992417度 / 53.407222; 58.992417
所在地 ロシアの旗 ロシア マグニトゴルスク
設計者 ヤーコフ・ベロポルスキー
素材 青銅
花崗岩
高さ 15 m
開場 1979年6月28日 - 29日

銃後と前線記念碑(じゅうごとぜんせんきねんひ、: Памятник «Тыл и фронт», : Rear-Front Memorial)は、ロシアマグニトゴルスクにあるモニュメントである[1][2][3]

概要[編集]

両手を伸ばした労働者から戦士に、剣が手渡されている様子が表現されている[4][2][5][6]。戦士は、独ソ戦の前線があった西の方角を向いているのに対し、労働者は、マグニトゴルスク製鉄所がある東の方角を向いている[7][1][4]

高さは15メートルである[7]。モニュメントは、1979年6月28日 - 29日に公開された[2]。設計は、建築家のヤーコフ・ベロポルスキー (ru:Белопольский, Яков Борисович) による[3][7]。彫刻は、彫刻家のレフ・ゴロヴニツキー (ru:Головницкий, Лев Николаевич) による[3][7]。モニュメントに「銃後と前線」という名前を付けたのは、ゴロヴニツキーである[8]

母なる祖国像

このモニュメントは、三連祭壇画 «Меч Победы»: “The Sword of Victory”)の最初の部分を表現しており、2番目の部分を表現しているのは、ヴォルゴグラードママエフの丘にある母なる祖国像であり、3番目の部分を表現しているのは、ベルリンのトレプトウ公園 (en:Treptower Park) にあるソ連英雄記念碑であるとされる[9][7][10][11][12]。モニュメントには、花崗岩で造られた、星の形をした花と、その中で燃える永遠の炎が含まれる[7][4][13][6]

2つの台形のセクションには、独ソ戦に際してソ連邦英雄の称号を授与されたマグニトゴルスク市民の名前が刻まれている[2]。2005年5月9日に新たに設けられた2つの三角形のセクションには、戦争で命を落とした14,000を超えるマグニトゴルスク市民の名前が刻まれている[2]

建設[編集]

このモニュメントは、マグニトゴルスク市が設立されてから40年が経つのを記念して建設された[14]。戦争に使用された戦車のおよそ2分の1と砲弾のおよそ3分の1がマグニトゴルスクの鉄鋼を用いて製造されたことから、モニュメントを設置する都市にマグニトゴルスクが選ばれた[2][5]。モニュメントを建設することを目的として、ウラル川のほとりに18メートルの高さをもつ人工の丘が造られた[15][6]。丘の基盤部分の固定には、鉄筋コンクリート杭が用いられている[6]。83トンに及ぶ青銅の像がレニングラードで鋳造された後に分解され、鉄道によってマグニトゴルスクまで運搬されてから組み立てられた[14]

脚注[編集]

  1. ^ a b “ロシアの戦勝記念碑6選”. ロシア・ビヨンド. (2019年5月9日). https://jp.rbth.com/history/82000-roshia-no-senshoukinen-hi 2020年7月11日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f Люди труда — героям труда”. WorldSkills Russia. 2020年7月11日閲覧。
  3. ^ a b c “Memorials weave WWII into Russia's psyche”. the Mainichi Shimbun. (2020年5月7日). https://mainichi.jp/english/articles/20200507/p2g/00m/0in/110000c 2020年7月11日閲覧。 
  4. ^ a b c “Магнитогорск борется с Челябинском за право попасть на новые купюры. И пока выигрывает. ФОТО”. Новости РИА URA.RU. (2016年7月13日). https://ura.news/news/1052255247 2020年7月11日閲覧。 
  5. ^ a b ЮЖНЫЙ УРАЛ В ГОДЫ ВЕЛИКОЙ ОТЕЧЕСТВЕННОЙ ВОЙНЫ”. Губернатор Челябинской области. 2020年7月11日閲覧。
  6. ^ a b c d Монумент «Тыл-Фронту» в Магнитогорске”. туристический портал Челябинской области: КАРТА74.рф. 2020年7月11日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Объект культурного наследия регионального значения «Памятник «Тыл и фронт».”. マグニトゴルスク. 2020年7月11日閲覧。
  8. ^ ПАМЯТНИКИ ГОРОДА МАГНИТОГОРСКА”. Объединение городских библиотек города Магнитогорска (2011年). 2020年7月11日閲覧。
  9. ^ 安松みゆき (2017年5月18日). “戦後ドイツにおける脱ナチ化の様相(1)― ベルリンの場合 ―”. 別府大学会. 2020年7月11日閲覧。
  10. ^ Student Guide”. Nosov Magnitogorsk State Technical University. 2020年7月11日閲覧。
  11. ^ Civil Engineering, Architecture and Arts Institute”. Nosov Magnitogorsk State Technical University. 2020年7月11日閲覧。
  12. ^ Триптих «Меч Победы»”. Муниципальное бюджетное общеобразовательное учреждение средняя общеобразовательная школа №3 муниципального образования город-курорт Геленджик Официальный сайт. 2020年7月11日閲覧。
  13. ^ “Магнитогорский монумент «Тыл — фронту» может попасть на новую купюру”. Комсомольская Правда. (2016年7月13日). https://www.chel.kp.ru/online/news/2449691/ 2020年7月11日閲覧。 
  14. ^ a b “«Тыл и фронт»: монумент отметил свой сорокалетний юбилей”. Магсити74. (2019年6月29日). https://www.magcity74.ru/news/52529-tyl-i-front-istorija-monumenta-istorija-goroda.html 2020年7月11日閲覧。 
  15. ^ "TYL FRONTU" MONUMENT HISTORY”. Международный научно-инновационный центр. 2020年7月11日閲覧。