金丸久夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金丸 久夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県岡谷市川岸東
生年月日 1963年4月6日
没年月日 1990年2月27日
身長
体重
175 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1981年 ドラフト外
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

金丸 久夫(かねまる ひさお、1963年4月6日[1]1990年2月27日)は、長野県出身の元プロ野球選手。175㎝、72㎏、右投右打、内野手[2]

人物[編集]

長野県岡谷工業高等学校では投手で、七色の変化球といわれるほど多彩な球種を持ち[3]、打撃でも3番打者を務めていた。1981年、高3の時、長野県予選では、佐久高等学校相手に5‐0で無安打無得点試合を達成、準決勝では6年連続で甲子園出場中であった松商学園高等学校を1安打完封2‐0で下し、決勝も長野県上田高等学校を5‐0で完封し第63回全国高等学校野球選手権大会出場を決めた。
本大会では、1回戦の大分県立津久見高等学校相手に15奪三振5‐2で勝利し、同校史上51年ぶりの甲子園勝利を上げた。この試合は、初回にカーブを狙われていると気付き、速球主体に切り替え勝負球にナックルを投じた。また打っては5回表に3点三塁打を放ち、津久見の小嶋仁八郎監督は「完敗です」と述べた[4]。2回戦は加藤誉昭擁する宮崎県立都城商業高等学校と対戦。4回裏、加藤に直球を中堅に本塁打されたが、5回以降は無安打に抑え、6回表に自らの犠飛によって同点に追いつき、押し気味に進めながら1-1で延長戦に突入。12回裏、カーブを狙っていたという加藤に右翼ポールすれすれにサヨナラ本塁打され1-2で惜敗した[5]。この年の暮れ、ドラフト外ロッテオリオンズに入団が決まり、背番号62で内野手に転向することになった。
入団後、腰を傷めたこともあり、1983年に退団[6]し、地元に帰り配管工の職に就いていた。1990年2月27日午前2時10分頃、長野県諏訪郡下諏訪町南高木の県道を金丸が3人の若者を乗せて乗用車を運転していたところ、ゆるい左カーブを曲がり切れず、対向車線にはみ出し、大型トラックと正面衝突。乗用車は大型トラックの下に潜り込み形になり、屋根は完全にはぎ取られた。金丸は岡谷市の病院に救急搬送されたが、1時間半後肺挫傷のため、同乗者3人とともに死亡した。享年26[7]。当日は小雨でスリップしやすかった。

出典[編集]

  1. ^ プロ野球人名辞典620ページ、森岡浩、日外アソシエーツ、2001年、ISBN 978-4816916694
  2. ^ 朝日新聞、1982年、今季の布陣
  3. ^ 朝日新聞1981年8月5日朝刊15面
  4. ^ 朝日新聞1981年8月13日朝刊、金丸15三振の力投、津久見寄せつけず
  5. ^ 朝日新聞1981年8月18日朝刊17面
  6. ^ 1983年のメンバー表になく年初に退団か
  7. ^ 朝日新聞1990年2月27日夕刊19面、スワ深夜若者4人衝突死、元甲子園投手が運転