赤坂城の戦い

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赤坂城の戦い

大楠公一代絵巻(下赤坂城の戦い)/楠妣庵観音寺蔵
戦争元弘の乱
年月日1331年9月11日
場所河内国赤坂城
結果:赤坂城陥落
交戦勢力
楠木正成 鎌倉幕府
指導者・指揮官
楠木正成 不明
戦力
500 約20~30万
元弘の乱

赤坂城の戦い(あかさかじょうのたたかい)は、鎌倉時代後期1331年9月11日に起こった河内国の戦い。河内国赤坂城に於いて、楠木正成笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、凡そ500の寡兵をもって約20~30万の幕府軍とわたり合った戦いである。     

経過

鎌倉時代末期1324年後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕を計画したが、陰謀が発覚し失敗した(正中の変)。7年後、再び倒幕計画を日野俊基に進めさせたが、陰謀が再度発覚した(元弘の変)。後醍醐天皇は宮中から姿をくらまし、笠置山で兵を挙げ、これに楠木正成が呼応し赤坂城で挙兵した。

幕府軍は、後醍醐天皇が挙兵した笠置山を諸国御家人の軍勢を招集してこれを包囲、天皇方は寡兵ながらもよく抗禦したが約1ヵ月後陥落する。その時、楠木正成は自害し、遺体は味方の手で隠されたということにされたが、密かに落ち延びた。笠置山を陥落せしめた幕府軍は、笠置山包囲軍、その他余力を加え大軍を以って赤坂城へと攻め寄せた。

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