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裴秀

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裴 秀(はい しゅう、224年 - 271年)は、三国時代から西晋にかけて政治家季彦司隷河東郡の人。祖父は後漢に仕えた裴茂、父は魏に仕えた裴潜。裴浚、裴頠の父。

三国志』の父の伝に引用された『文章叙録』にまとまった記述があり、『晋書』には独立した伝がある。

子供の頃から学問を好んだ。当時叔父である裴徽の名声が高く、裴秀は生母の身分が低かったため、父の正室である継母に母子ともに冷遇されていたが、生母は毅然とふるまったため、継母のいじめは止み、人々は裴秀が裴家の後継であると認識するようになった。

カン丘倹の推挙で曹爽に取り立てられた。244年、父が亡くなると、兄弟に財産を分け与え、父の爵位を継承した上で黄門侍郎となった。249年に曹爽が処刑されると、免職となる。その後、司馬昭から取り立てられ散騎常侍となる。

裴秀は魏の皇帝・曹髦とも親しく、曹髦に「儒林丈人」と呼ばれ、曹髦とは学問の子弟の仲にあったと言われている。曹髦は司馬望・裴秀・王沈鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。 諸葛誕の反乱鎮圧には陳泰や鍾会と共に参謀として参加した。

司馬昭が後継を定めようとしたときは長男の司馬炎を推挙した。司馬炎が曹奐に皇帝位を禅譲させた時は賈充・王沈・羊祜荀勗らと共に協力している。

晋の時代には文官として仕え、晋の礼法、官制の制定に功を挙げ、『禹貢地域図』十八篇を作った。司空になっている。

征伐に積極的であったが、晋の大陸統一を見ることのないまま271年没。五石散中毒だったようで、乱用のあげくに錯乱状態に陥り、激しい悪寒と高熱に見舞われて訳の分からぬことを絶叫し続けたため、周囲の人々は高熱だから冷やせばいいと、禁忌である冷酒を飲ませて数百石の水をぶっかけたところ絶命してしまったという。裴浚が継承したが早くになくなり、裴頠がその後を継いだ。

参考