藤原盛重

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藤原 盛重(ふじわら の もりしげ、生没不詳)は、平安時代後期の武士藤原北家良門流。藤原国仲(平国仲)[1]の子。兄弟に盛仲、定重、隆仲、国盛、念尊らがあり、子に盛俊、盛道、盛賢、盛宗、盛成、盛綱、盛景、重舜などがある。従五位上検非違使相模守信濃守。近藤右衛門尉と号す。

周防国の出身で幼名を今犬丸(あるいは千寿丸)といい、初め東大寺に侍童として仕えていたが、白河院南都御幸の際にその眉目秀麗なるを見初め、寵童(男色相手)として召し出したという。以後白河院に近侍し、元服して後は高階経敏に家人として仕える。北面武士としては寛治2年(1088年)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では康和4年(1102年)4月25日以降、検非違使在職が確認できる。

嘉承3年(1108年)には、藤原佐実源仲政との乱闘の末に髻を切られるという事件に際し、白河院の意を受けた摂政藤原忠実の命により、犯人を逮捕して名を挙げた。永久元年(1113年)、いわゆる「永久の強訴」に当たっては、平正盛平忠盛源為義源光国らとともに興福寺大衆の鎮圧に派遣され、また同年、いわゆる「永久の変」に当たっては、鳥羽天皇呪詛の罪状を得た醍醐寺の僧仁寛の逮捕にも当たっている。この功績により、検非違使尉の地位を嫡男の盛道に譲ることを許されている。

脚注

  1. ^ 父国仲は元来桓武平氏高棟王流の一族(播磨守平生昌の次男以康の子)であったが、のちに良門流・藤原資国の養子となり藤姓に改めたとされる。