茄子川馬場氏
茄子川馬場氏(なすびがわばばし)とは、江戸時代に美濃国恵那郡茄子川村(現在の岐阜県中津川市茄子川)の一部および甲斐国巨摩郡の一部を領地とした600石の旗本。
概要
馬場氏は、木曽義仲を先祖とする家柄で、8代目の家佐が初めて馬場氏を称し、子孫の昌次が関ヶ原の戦いの時に山村良勝や千村良重と伴に徳川秀忠を迎え、後に手勢を出して岩村城と明知城を攻略した功績で美濃国の恵那郡・土岐郡・可児郡の内で1600石を賜って木曾衆の中で唯一の旗本となったが、その後甲斐国巨摩郡に1000石を加増され本家の釜戸馬場氏は土岐郡釜戸村を拠点として2600石を有した。
釜戸馬場氏3代目の馬場利尚は明暦3年(1657年)11月25日に弟の馬場利興に対し、父の遺領の内、茄子川村の275石と甲斐国の巨摩郡の合計600石を分知し茄子川馬場氏が誕生した。
旗本・茄子川馬場氏
- 初代 利興 寛文元年(1661年)11月、甲斐国の巨摩郡の采地を改めて常陸国の河内郡・下総国の匝瑳郡・海上郡・香取郡の4郡に移される。延宝8年(1680年)6月19日卒去。
- 二代 利隆(藤十郎) 御書院番を務める。元文5年(1740年)8月卒去。
- 三代 利永(藤十郎) 養父利隆の後を嗣ぎ宝暦13年(1763年)11月卒去。
- 四代 利房(権六郎) 父の利永が多病の為、承祖相続し西丸御書院番を務め天明4年(1784年)10月卒去。
- 五代 利容(熊蔵)
- その後、数代が不詳。
- 明治2年(1869年)12月2日の布告により馬場繁次郎が600石の中の茄子川村の275石の知行所を政府に奉還した。(寛政重修譜・濃飛通史)
茄子川村について
茄子川村は、旧中山道沿いの村であり、現在の中津川市の西南部、木曽川の南岸に位置する。 江戸時代初期の茄子川村の石高は1,368石余で、旗本の茄子川馬場氏の275石と尾張藩の木曾衆の山村甚兵衛 350石・千村平右衛門 125石・原十郎兵衛 156石6斗・千村助右衛門 145石・山村一學 130石・千村次郎右衛門 119石・三尾左京 86石)計8名の入相支配地であった。
参考文献
- 恵那郡史
- 中津川市史