紀咋麻呂

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紀 咋麻呂
時代 平安時代初期
生誕 天平勝宝7歳(755年
死没 天長10年1月19日833年2月12日
官位 正四位下兵部大輔
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀古佐美
兄弟 咋麻呂広浜、男仲、與須賀、道成、
末成、女子
愛宕麻呂
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紀 咋麻呂(き の くいまろ)は、平安時代初期の貴族大納言紀古佐美の子。官位は正四位下兵部大輔

経歴

延暦18年(799年従五位下叙爵。延暦23年(804年桓武天皇和泉国への行幸のとき御後副長官を勤める。延暦25年(806年)の桓武天皇崩御の際には御装束司を勤めた。

平城朝では、中務少輔散位頭を歴任する。のち、大同5年(810年)従五位上、弘仁5年(814年)三階の昇叙により従四位下嵯峨朝の前半で順調に昇進、この間肥後守刑部大輔左京大夫兵部大輔を歴任した。

弘仁14年(823年淳和天皇の即位に伴い従四位上に、天長6年(829年正四位下に叙せられた。天長10年(833年)正月19日卒去享年79。最終官位出雲守正四位下。

人物

才覚はなかったが、光仁天皇外戚であったことから四位の位階に至り、天寿を全うした[1]

官歴

日本後紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ 日本後紀』天長10年正月19日条
  2. ^ a b 鈴木真年『諸系譜』第1冊,紀朝臣

参考文献

  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年