竹林の七賢

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竹林の七賢を題材にした後世の絵画

竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国三国時代末期および晋代初期に老荘思想を主張し、清談を行った七人の思想家の総称である。

故事[編集]

竹林の七賢と栄啓期 南京市西善橋宫山北麓,東晋晚期-南朝劉宋帝王陵墓レリーフ拓本
竹林の七賢 レリーフ拓本

阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職について(つかされて)おり、特に山濤と王戎は三公にまで登っている。日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は鍾会の讒言によって陥れられ、死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。

魏からの時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行した。『世説新語』には彼ら以外の多くの人物について記されているが、彼ら以後は社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。

関連作品[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]