王戎

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王 戎(おう じゅう、青龍2年(234年) - 永興2年(305年))は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。・晋に仕えた。字は濬沖徐州瑯邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身(瑯邪王氏)。祖父は王雄(字は元伯)。父は王渾(字は長源。王渾玄沖とは別人)。叔父は王乂(字は叔元。平北将軍。子は王衍)。従弟は王衍。子は王万・王興・娘(裴頠妻)。『晋書』に伝がある。

竹林の七賢の1人として知られ、『世説新語』に数々の逸話がある。

生涯[編集]

幼い時の神童振りは、曹叡(明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問に訪れたが、王戎は付け届けの類を全て受け取らず、名声を高めた。

王戎の体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼に拘ることはなかった。話し好きで知られ、酒を嗜みながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐に赴く鍾会に相談を持ちかけられた際、道家の言葉を引きながら語った発言は、鍾会の命運を見通したものであったため、識者に評価された。

父の爵位を継いだ後は、司馬昭の招聘を受けて魏・晋で官職を歴任した。司馬昭の死後、司馬炎から吏部黄門・散騎常侍・河東太守荊州刺史と順番に任じられたが、荊州刺史の時に役人を私的な用事に使ったため、免職となりそうになった。しかし罰金で済まされた。泰始8年(272年)、歩闡が帰順して来た際、軍法違反のため羊祜から斬られそうになった。この時も王戎は助かったが、同じく羊祜に批判された王衍と共に、羊祜の悪口を言い散らした。世人は王氏の威風を憚って、羊祜には徳が無いと噂するようになった。

その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。咸寧5年(279年)からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、武昌(現在の鄂州市)に侵攻して王濬と共に呉を滅亡に追い込む功績を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人々に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いをかけられた。武帝(司馬炎)はそれを庇っている。

『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで昇ったとしている。光禄大夫・吏部尚書まで官職が昇ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、父に対して親孝行であったため、瞬く間にやつれていった。その様子は劉毅に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は、王戎に薬を与え医者に係らせた。

武帝の没後、外戚楊駿が実権を握ると太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公の司馬繇(司馬伷の子)が勝手な振る舞いをしたため、これを諌めた。王戎は光禄大夫・中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。しかし王戎がそれでも地位を保てたのは、外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。

元康7年(297年)、官位はついに三公である司徒まで昇った。しかし永康元年(300年)、娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も、朝廷の要職へ就いたにも関わらず八王の乱の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかった。またそれ故に殺害されることもなかった。

永興2年(305年)没した。子の王万が若死し、王興も庶子であり後継できなかったため、縁戚の者に跡を継がせた。

人物[編集]

若い頃から文才に優れ、荀寓(荀彧の孫)や杜黙らと親交があった。また光禄大夫の時に、鄧艾の孫の鄧千秋を武帝に推挙し、鄧艾の名誉回復にも尽力した。さらに旧呉の石偉という人物を取り立てている。

『世説新語』では幼い時に神童であったが、長じて吝嗇家(ケチな人物)として知られるようになったとされ、相反するような方面での逸話が残されている。例えば「庭の李を売っていたが、李は発芽しないよう種に穴を開けて売られていた」・「甥が結婚する際に着物を用意したが、後で代金を請求した」・「娘が裴頠のところへ嫁入りした時、銭数万を贈った。その後、彼女が里帰りしても王戎が不機嫌なので、慌てて銭金を返すと急に笑顔を見せた」等の話がある。実際には、道を究めようとしたが、竹林のメンバーが数人殺されたため、韜晦術の一つとして、吝嗇家になったと思われている。

参考[編集]