童生淵の戦い

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童生淵の戦い(どしょうぶちのたたかい)または小豆畑の戦い(あずはたのたたかい)

童生淵の戦い
戦争伊達家相馬家の抗争
年月日天正18年5月14日(1590年
場所:(現在の福島県相馬市)石上周辺
結果:伊達軍の勝利
交戦勢力
伊達軍 相馬軍
指導者・指揮官
亘理重宗
黒木宗元
佐藤藤右衛門
相馬隆胤 
木幡玄清
伊達政宗の戦い

経過

相馬氏は天正17年(1589年)に駒ヶ峯城蓑頸城を立て続けに失った。天正18年(1590年)伊達軍が小豆畑にいると聞きつけ十二所山に兵を出した。

伊達方は亘理重宗を大将に坂元城、駒ヶ峰城、小斎城の兵が相馬方は相馬隆胤の中村城の軍勢が戦ったとされる。[1]

隆胤はこの時馬が田んぼにぬかるみ動けないところを討ち取られたと云われている。

総大将の隆胤を筆頭に矢田但馬守に門馬貞経が撃ち抜かれるなど名のある将が次々と壊走する大敗を喫した。

影響

この戦いにより、伊達氏と相馬氏の国境が確定し、駒ヶ嶺城までが伊達領となった。また、幾度と行われた両者の戦いは終止符を打たれた。

脚注

  1. ^ 亘理重宗と相馬隆胤は義理の兄弟にあたる

出典

  • 相馬市資料集特別編 衆臣家譜