石川小五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。M-sho-gun (会話 | 投稿記録) による 2010年12月7日 (火) 03:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

石川 小五郎(いしかわ こごろう)、天保11年2月9日1840年3月12日) - 大正8年(1919年9月29日)は日本武士長州藩士)、官僚。はじめ石川新五郎と称したが、のちに河瀬真孝(かわせ まさたか)、河瀬安四郎と改名。位階勲等は正二位勲一等、爵位は子爵

生涯

周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫館に学ぶ。文久2年(1862年)、先鋒隊に入隊 。文久3年(1863年)の朝陽丸事件での幕府使節団暗殺の首魁とされる。元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。

慶応3年(1867年)、トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り、工部少輔・駐英公使として明治4年(1871年)まで滞在する。帰国後は侍従長に就任するも、明治6年(1873年)にはイタリアオーストリアに赴任。在任中にヴィンチェンツォ・ラグーザ工部美術学校彫刻科の講師として日本へ招く事に成功している。明治16年(1883年)、司法大輔。明治17年(1884年)より明治26年(1893年)まで再び公使としてイギリス在住。明治27年(1894年)に枢密顧問官となり、死去まで務めた。