白色革命

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白色革命(はくしょくかくめい、英:White Revolution、ペルシャ語:انقلاب سفید)とは、イランの第2代国王(シャーハンシャーモハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)が、1963年にイランの近代化、西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革の総称である。旧来の伝統を色濃く残していた当時のイラン社会に大混乱をもたらした。

概要

国王モハンマド・レザーは、米国民主党ケネディー政権による継続的なイランに対する改革要求により、上からの近代化による経済成長を計画。アメリカの支援のもと、農地改革を実施して農民の不満解消に努めると共に、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などの西欧化を推進した。また、イラン国内の資本と支持基盤を地方の地主層から中央のブルジョワジーに移し、近代的な産業社会の現出を試みた。

また、国家の西欧化や、イスラームといった宗教よりもアーリア人に起源をもとめる西洋的ナショナリズムを改革の柱とするなど、世俗的な政策を実施する一方、石油歳入にからんだ利益供与や協調組合制度の導入にも尽力、自らの権力を確固たるものにしようとした。

しかし、文盲率の高かった当時のイランはそもそも近代化の基礎構造を欠いていて改革の恩恵は一部の市民がこうむるにとどまった。それでも石油価格の暴騰で政府には金が有り余り、投資ばかりが先行した。貧富の差が増大し革命の影響は上流中産階級と下層階級との対立、特にリベラルなテクノクラートと厳格で保守的なシーア派宗教学者との対立を激化させ、これが後に起こるイラン革命の下地となった。

なお、シーア派の宗教学者でありイラン革命の指導者となるホメイニーは、これら一連の諸改革自体には直接反対しなかったものの、これら諸改革に潜むその国王独裁的な性格を熾烈に非難し、結果逮捕され、その後国外追放を余儀なくされている。

主な改革

  • 国民の識字率の向上 - モハンマド・レザーの即位前は国民の文盲率は95%だったが退位後は50%まで減少した。
  • 農地改革 - 国土の60%を埋める荒野を外国から技師を招いて緑化しようとした。また大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。
  • 海外留学 - 富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった。
  • 一夫一妻制
  • 女性参政権 - 女性に選挙権、被選挙権を認めたことから、宗教学者層を中心に非難された。
  • ヒジャーブ着用の禁止 -

関連項目