生駒吉乃

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生駒 吉乃(いこま きつの、享禄元年(1528年)? - 永禄9年5月13日1566年5月31日))は、戦国時代の女性。織田信長側室で、信忠信雄徳姫(見星院)の母[1]。法名は久庵桂昌大禅定尼。


出自・生涯

馬借を家業としていた生駒家宗の娘。名は『前野家文書』に吉乃(吉野)とある。

初めは土田弥平次に嫁ぐが、弘治2年(1556年)、夫が戦死し、実家に戻っていたところを信長に見初められ側室となった。信忠・信雄・徳姫を産んだが(後述)、産後の肥立ちが悪く死亡、荼毘に伏された。信長から香華料として660石が贈られる。

その後、石高は減るものの豊臣秀吉徳川家康らも追認(朱印状黒印状)されている。柏原織田家を招待し、200回忌、300回忌法要が営まれる。

信長正室濃姫には子がない為、その養子となった吉乃の子・信忠が嫡子であるとされ、結果、実質上の正室もしくは近い扱いを受けていた「信長最愛の女性」という説がある(後述)。

菩提寺と荼毘地に墓碑が存在する。


諸史料における記述の相違

名前について

名は「前野家文書」にては吉乃(吉野)とされるが、生駒家に吉乃の名は伝わっていない。伝わっているのは「」であり、そちらが正式な名であると推察されている。当時は戦地に該当し、頻繁に屋敷の建設と解体が繰り返されていた。加えて、菩提寺の宗旨変えが繰り替えされており、詳細な記録が乏しい。

一般的には、彼女が誕生したとされる享禄元年(1528年)頃に「類」のようなR音語頭の女性名は非常に珍しく、平安時代中期に宮人に一例見られる。R音語頭の女性名が一般的になっていくのは江戸時代になってからである。[2]

没年齢について

永禄9年(1566年)5月13日、死去。享年39とされるが、吉乃は信長より4歳年下であり、29歳で死去したという説もある。

正室待遇説

この説は基本的に『前野家文書』を土台とする。

吉乃が徳姫出産後の産褥で重症に陥っているのを信長が知らず、完成していた小牧城の御台御殿(主は小牧殿と記載されている、正室・濃姫の事と推測される)に移るようにと生駒家に命じた事で、吉乃の兄の八右衛門が信長に吉乃の移動が難しいと相談に行き、初めて信長はその病を知った。そして信長自ら生駒屋敷に赴き、通常吉乃の身分では乗る事はできないはずの輿を差し向け、嫡男信忠の生母として家臣達に披露され、拝謁を受ける。そして吉乃が小牧御殿に移り住んだ後、信長は足しげく見舞うようになったなどと記述されている。

『前野家文書』においては信長が病を知らなかった期間は言明されていない。史実から計算するとこの期間は6年となる。6年もの間信長が吉乃の病を知らないという事から、その間は疎遠になっていた事が読み取れる。ただし、『前野家文書』では、吉乃死亡時の永禄9年(1566年)に徳姫が5歳であったとしている。吉乃は小牧御殿に移った翌年に死亡とも記載されているので、『前野家文書』において信長は、4年間吉乃の病を知らなかった事となる。また、御台御殿に座敷を与えられた時、初めて嫡男信忠の生母として、側室の披露を受けたことも記述されている。それまでは『前野家文書』においても非公式の愛妾という立場であった事が分かる。

同じく『前野家文書』(武功夜話拾遺)には「先に清須に御移りは申四月日、小牧新御殿小牧殿の事」という記述があり、正室濃姫が吉乃より先に信長と同居していた事が記されている。ただし「申四月日」をそのまま永禄3年(1560年)4月と考えると、信長は天文23年(1554年)に那古野城から清洲城に移っており、時期的に疑問が残る(あるいは単純に信長が清洲に移った「さる天文23年」4月の誤記か)。武功夜話拾遺においては、濃姫は弘治2年(1556年)3月に輿入れした事になっているが(実際は天文18年(1549年)2月輿入れ)、当時那古野城には留守居役の林秀貞がおり、8月には林秀貞が信長に敵対した稲生の戦いが起きていることもあり、那古野城に嫁ぐという事も考えにくい。

最初の夫「土田弥平次」について

吉乃の夫・土田弥平次は弘治2年(1556年)9月に亡くなったとされるが、『前野家文書』でも同様の記述が見受けられるものの、別の箇所には「天文20年(1551年)の濃姫輿入れよりも早い時期(『武功夜話』)」や、「弘治2年(1556年)の濃姫輿入れ前の天文24年(1555年)正月頃(武功夜話拾遺記載)」などに吉乃は男子(信忠)を生んだと記述されており(信忠の誕生は実際には弘治3年(1557年))、濃姫の輿入れよりも信長の吉乃への寵愛が早く、男子出産も早かったとしたかったものと思われる。

吉乃が弘治2年(1556年)9月以降に、信長の側室になったとすると、信忠の誕生は考えうる限り最短で弘治3年(1557年)8月頃となり、更に信雄を身籠るのが信忠出産から最短であったとしても、永禄元年(1558年)5月頃の誕生となる。これは、信雄の誕生が同年3月末と伝わっている事と矛盾が生じる。

3人の子(信忠・信雄・徳姫)について

弘治3年(1557年)に信忠、永禄元年(1558年)に信雄、永禄2年(1559年)に徳姫を産んだといわれるが、後年織田家の主流が信雄の家系になって以降の史料には、信忠生母が信雄と同じであるとの記述が散見されるようになる。

勢州軍記・余吾庄合戦覚書・寛政重修諸家譜
信忠は正室濃姫の養子となって嫡子としての資格を得たことは江戸期の作で信憑性に乏しいが、『勢州軍記[3]余吾庄合戦覚書』『津嶋大橋記[4]に記載されていることから、当時の奥の慣習から考えれば、正室の管理下である奥において、信長の胤である事がはっきりしている状態で信忠が誕生したと推測できる。なお、信忠、信雄は「寛政重修諸家譜」では清洲城で誕生した事が記されている。これは上記の、正室の管理下である奥での信忠誕生説を補完しうるものである。
武功夜話(前野家文書)
『前野家文書』では、吉乃自身が清洲城に入ったことは記されておらず、三子を生駒屋敷で生み、小牧城完成後数年の後に増設された同書以外に存在を確認できない御台御殿に、室(側室)として移り住んだ事になっている。
織田家雑録
織田家雑録』には「信忠・信雄・五徳の3人が鼎の足になって織田家を支えて欲しいと五徳と名付けた」とあるが、五徳を信忠の姉と表記してあるなど史料にも矛盾がある。五徳が吉乃腹であるかどうかは不詳である。


吉乃と永姫

加賀藩の『本藩歴譜』では前田利長の正室・永姫の生母を「生駒」と仮冒している。しかし、吉乃が永禄9年(1566年)の死去に対し、永姫は天正2年(1574年)の出生であり別腹である。生駒氏側史料にも吉乃の子は信忠・信雄・徳姫3人の母のみと明記され無関係だとわかる。他に、生駒氏室もない。(生駒氏家譜)

また、織田信雄により母方の姓「生駒」を下賜された家臣も存在する。吉乃の娘として明厳誉傳和尚に懇願し、夫人自ら資金を出して金沢久昌寺を建立、追崇することで当時の戦局を有利にするため、生駒氏との関係を主張したかったとものとされる。

脚注

  1. ^ 菩提寺位牌裏書による。
  2. ^ 角田文衛著「日本の女性名」参照
  3. ^ 「嫡男信忠卿亦妾人腹也 弘治三年丁巳誕生 是御臺台之御養子也」とある。
  4. ^ 「信忠妾腹也 弘治三丁巳年誕生給 是御臺御養子也」とある。