甄萱
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甄萱(けんけん、朝鮮語: 견훤、現代朝鮮音:キョンフォン、867年 - 936年)は、後百済の始祖(在位:900年 - 935年)。
黄澗甄氏(こうかんけんし、황간견씨、ファンガンキョンシ)の始祖で阿慈介(あじかい、아자개、アジャゲ)の息子。尚州加恩県生まれ。新羅に生まれて南海の防衛に功を立てて裨将となった。
国が混乱するすきに乗じて、892年(真聖女王6年)、反旗をあげて多くの城を攻略した後、武珍州(現在の光州)を占領して独自の基盤を収めた。900年(孝恭王4年)、完山州(全州)に入城、自らを後百済王と称して官制を整備する一方、中国にも使臣を送って国交を結びながら弓裔の後高句麗とよく衝突して勢力拡張に力を尽くした。
その後王建が立てた高麗とも随時に血戦をして軍事的優位を維持した。926年、新羅の首都慶州(けいしゅう、キョンジュ)を陥落して親麗政策を取った景哀王を殺した後、金傅(きんぷ、キムブ)を王にして撤収して新羅人の恨みを買った。
929年、高敞(こうしょう、コチャン)で王建の軍に敗戦した後から徐々に勢力が傾き、有能な臣下達が王建に投降した。934年、熊津(公州)以北の30城が高麗に占領された。翌年、王位継承問題で長男神剣(しんけん、シンゴン)によって金山寺に流弊されたが脱出、王建に投降して尚父(しょうほ、サンボ)の称号と楊州を食邑で受けた。
936年、王建に神剣討伐を要請し、後百済を滅亡させた後に黄山寺にて凍傷で死んだ。