王秉

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王秉(おう へい、生没年不詳)は、中国西魏からにかけての軍人。『北史』では避諱により名を康と書かれる。本貫太原郡祁県

経歴

王思政の子として生まれた。549年大統15年)、父が穎川で敗れて東魏に降伏したが、王秉は西魏に残った。父の太原公の爵位を嗣ぎ、驃騎大将軍・侍中開府儀同三司の位を受けた。550年(大統16年)、東征に参加し、使持節・大都督の任を加えられ、父の旧部下の兵士を配属された。553年廃帝2年)、尉遅迥の下で蜀を攻撃し、天水郡に駐屯した。ほどなく拓王氏の姓を賜り、鄜州刺史となった。560年武成2年)、匠師中大夫に任じられ、載師中大夫に転じた。562年保定2年)、安州総管に任じられた。571年天和6年)、柱国に上った。575年建徳4年)、襄州総管に転じた。隋代に入って、汴州刺史として死去した。

子女

伝記資料

  • 周書』巻18 列伝第10
  • 『北史』巻62 列伝第50