王小亭

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王小亭(おう しょうてい、ワン・シャウティン、1900年 - 1983年)は中国系アメリカ人のカメラマン・映画撮影技師である。

人物・来歴

米国の大学卒業直後から英米ニュース短編映画会社の撮影技師を担当する。その後、1925年1937年の間、「万国ニュース通信社」の撮影技師、上海申報新聞および米国ハースト新聞社でカメラマンを務めた。

活動

日中戦争開始直後の1937年8月28日、米国ハースト新聞社のジャーナリストとして、米軍の委託を受け、上海事変(第二次)における張華濱港戦闘後の撮影をおこなった。その際に日本軍により空爆[1]された上海南駅で、「中國娃娃」と呼ばれる後に最も有名になるニュース写真を撮影した。この写真は戦争の悲惨さを強く印象づけたものとして、新聞王ハーストの手により、2週間後には米国のLIFE誌、およびその他複数の雑誌に掲載され、世界に向けて配信された。この爆撃で破壊された廃墟の中で泣き叫ぶ幼児の画像「中國娃娃」は米国のマスコミや民衆を驚かせるだけではなく、全世界で広く伝えられ、さらに多くの人々の話題になった。この写真は米国の民衆の間で日本の中国進出に反対する世論を盛り上げるために大きな効果をもたらした。

第二次世界大戦の間、王はそのまま中華民国国民革命軍国民政府で活動した。また、蒋中正(蒋介石)と宋美齢夫人とのシーンなど、蒋の日常生活の様子を数多く撮影している。

戦後、王は米国に一旦帰国した後、台湾に移り、記録映画関連の映画と写真の撮影に従事した。1950年-1960年代、王小亭は米高梅公司の記録映画の撮影に転職し、『章嘉活佛火化(章嘉活の火葬)』、『台灣櫻花盛開(台湾の桜が満開)』などの短編映画を残した。

中國娃娃について

「写真1」:『LIFE誌』(1937年10月4日号)に掲載。1937年の上海事変(第二次)の上海南駅爆撃直後に撮られた写真である。
「写真2」:『日寇暴行実録』「避難後の父子」とキャプションに掲載[2]

経緯

「写真1」がLIFE誌(1937年10月4日号)に掲載され、アメリカの世論に、日本の爆撃による悲惨さを訴えた。ライフ誌の1938年1月3日号ではこの写真が、「読者の選んだ1937年ニュースベスト10」に入る等、大きな反響を呼んだ[2]

またこの赤ん坊を対面のホームから線路を渡って「写真1」のホームに運んでいる男性(「写真2」の男性とは別人)の写真がルック誌(1937年12月21日号)に掲載された。この男性が子供を運んでいる様子はザ・バトル・オブ・チャイナの24分07秒から24分10秒でも動画として見ることができる。

「写真2」は『日寇暴行実録』において「避難後の父子」とキャプションが付けられて掲載された[2]

これらの写真は「戦後は長い間撮影者不詳とされてきたが、後に撮影者が王小亭であることと撮影場所が上海である」ことを自分が発掘したと東中野修道は主張している[2]

南京事件との勘違い

『LIFE』誌ではこの幼児が上海南駅爆撃の民間人犠牲者のうちの1人であるとして、初出の掲載から撮影地が上海であることを説明しているが、東中野修道によれば戦後は撮影場所が上海南駅であることが忘れ去られ、南京事件の写真として使用される例がみられるとし[2]、インターネット上にも、南京での虐殺行為もしくは関連行為として掲載しているものが散見される[3]

南京大虐殺紀念館でも南京事件のものとして展示されていたが、かねてから日本の外務省や政治家が「信頼性の乏しい写真である」「いずれも、南京事件とは無関係であることがはっきりと証明されている写真である」と撤去を要請しており、結果的に南京大虐殺紀念館はこの写真を含む3枚を撤去した、と産経新聞にて報道された[4]。これに対して南京大虐殺記念館の朱成山館長は「2007年12月のリニューアル以前にすでに写真が撤去されておりリニューアル後に写真を入れ替えたことがない」「幼児の写真は、展示会『上海で殺戮行為の日本軍、南京に向かう』で使ったことはあるが、南京大虐殺そのものの展示で使ったことはない」と主張した[5]

日本でも長崎原爆資料館において、これらの写真が「虐殺された中国の人々」とのキャプションと共に長らく展示されていた。市民団体等から捏造資料であるとの指摘を受け、当時の橋本龍太郎首相は写真の信憑性の調査を関係省庁に指示し、結果的に信憑性に乏しい写真とされ上記写真をはじめ176カ所の展示を差し替えるに至り[6]、また、ピースおおさかも「上海爆撃、泣き叫ぶ子供」とのキャプションを付けて展示していたが、「爆撃後の市街に赤ん坊1人だけでいる姿が不自然」と判断して撤去をしている[7]

研究者等からの疑義

戦前の陸軍情報部はこの写真が発表されるとすぐに 「背景の廃墟はトタン屋根を集めたものだ」 や『激動・日中戦史秘録』には「写真1」の幼児のすぐ脇で小さな煙が確認できるため「写っている煙は発炎筒を炊いたものだ」とし、プロパガンダ写真とした。近年では東中野修道が中国国民党宣伝部撮影班であった王が写真も動画も撮ったものであり、演出写真であるとしており[2]松尾一郎藤岡信勝なども同様の指摘をしている[7]。その内容としては、まずザ・バトル・オブ・チャイナの24分07秒から24分10秒で映し出される男性が演出写真を撮るためにわざわざ線路を渡ってホームに赤ん坊を置き、「写真1」と「写真2」の演出写真を撮影したとしており、特に「写真1」に関しては、ホームに運んだ男性と、「写真2」の男性と、撮影者の王という少なくとも大人の男性3名がいながら、わざわざ赤ん坊を一人にして撮った演出写真であるとしている[2][8]

一方で東中野などは演出しているとする場面がなぜ報道されているのかについての言及はしていない[9]

脚注

  1. ^ この空爆は、日本では日本海軍が軍用の駅を爆破した戦果として報道された(『支那事変画報』朝日新聞社第4号)。上海南駅は軍事物資の集積場であった。爆撃の際、上海で利用可能な鉄道駅は上海南駅のみとなっていたため、爆撃当時は避難民が多数詰め掛けており、死者は民間人のみ約170人であったと徐淑希は主張している(徐淑希編『日本人の戦争行為』)。
  2. ^ a b c d e f g 東中野修道『南京事件「証拠写真」を検証する』
  3. ^ [1][2]
  4. ^ 2008年12月19日 正論
  5. ^ [3][4][5]
  6. ^ 『産経新聞』1996年6月25日および1999年8月19日
  7. ^ a b 1998年9月26日産経新聞
  8. ^ 松尾一郎「プロパガンダ戦『南京事件』」
  9. ^ Morris-Suzuki, Tessa (2005). The past within us: media, memory, history. Nissan Institute-Routledge Japanese studies. Verso. pp. 72?75. ISBN 1859845134. http://books.google.com/books?id=8654wHjUfTEC&pg=PA74 

外部リンク

出典