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玉川兄弟

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玉川清右衛門から転送)
玉川兄弟の銅像(東京都羽村市

玉川兄弟(たまがわきょうだい)は、江戸時代の人物。兄は庄右衛門(しょうえもん、元和8年(1622年)? - 元禄8年6月6日1695年7月16日))、弟は清右衛門(せいえもん、生年不明 - 元禄9年5月5日1696年6月4日)?)。多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力である[1]。1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる。

玉川上水工事

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玉川庄右衛門の墓(聖徳寺)
玉川清右衛門の墓(聖徳寺)

上水工事は2度失敗していて、1回目は日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土(みずくらいど(水を吸う=みずをくらう):浸透性の高い関東ローム層)」、2回目は福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことであり、水喰土の失敗跡は今でも残されている。

1653年承応2年)から工事が行われ、1654年(承応3年)までに開通した。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされたが、1739年元文4年)に職を剥奪される。兄弟の墓所は台東区聖徳寺にある。

その他

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享和3年(1803年)に「玉川上水起元并野火留分水口之訳書」が、普請奉行・佐橋長門守佳如から老中松平信明に提出された。玉川兄弟の話は、八王子千人同心であった小嶋文平の「書状」をもとに、佐橋長門守が幕閣に答申した報告書の形を取っている。

脚注

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  1. ^ 渡部一二『図解武蔵野の水路:玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会、2004年、5ページ