熊懐氏
熊懐氏 | |
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本姓 | 波多宿禰 |
家祖 | 熊懐平右馬太夫波多宿祢行景 |
種別 | 社家 |
出身地 | 大和国高市郡波多郷 |
主な根拠地 | 筑後国生葉郡山春村 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
熊懐氏(くまだきし)は、筑後国生葉郡山春村(現在の福岡県うきは市浮羽町)を本拠とした一族。 波多氏 (古代)族。
熊懐の本家は、福岡県うきは市の賀茂神社社家を代々継いでいる。賀茂神社 (うきは市)参照
概略
賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(孝元天皇の曾孫)19世波多臣広庭[1]の子孫、波多次郎救家の嫡男久家和州としている。
久家は代々源氏に使え、大和国高市郡波多郷[2]から源頼朝の挙兵に応じて戦功を上げた。
建久4年(1193年)久家は、源頼朝の命により大友能直に従って九州に下向し、筑前上座郡4村、筑後生葉郡(浮羽の旧名)7村の地頭に任ぜられた。
建久7年(1196年)日吉神社を建立。その後は大友家侍大将格で登城した。
元弘元年(1331年)8月後醍醐天皇は山城国笠置山で挙兵した。この時初代久家から数えて8代目にあたる波多臣平右馬行景(はたのおみひょうまゆきかげ)は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じて笠置山に参集した(元弘の乱笠置山の戦い)。
元弘元年8月27日(1331年9月29日)天皇の御座近く熊が侵さんとしたが誰も止める者がいなかった。行景は、これを退治し抱いて天皇に献上した。
後醍醐天皇は、熊を懐し(いだきし)猛き武士(たけきもののふ)とお褒めの言葉と共に、熊懐の姓と梶の葉紋[3]を授けた。 これより熊懐平右馬太夫波多宿祢行景[4](くまだきひょうまだゆうはたのすくねゆきかげ)と称した。[5]
行景は後醍醐天皇の勅命を受けて宮方に属し戦った。 南北朝の長い戦いの中、浮羽の地域に希望の光を生みだそうと後醍醐天皇のご遺詔(ゆいしょう)(遺言)に従い正平元年(1346)に山城国愛宕郡より賀茂上下大神を奉遷し生葉郡山春村に賀茂神社を建立。行景が初代大宮司となった。
後醍醐天皇の皇子懐良親王(かねながしんのう|かねよししんのう)は征西将軍として、九州における南朝方の全盛期を築いた。 明朝は、日本国王良懐の称号を懐良親王に与えている。 行景の子、第九代宮司熊懐大炊助波多懐朝(くまだきおおいのすけはたのかいちょう)は、大友氏行に従って南朝方に属して戦い、ことに松浦党に対して戦功を上げ、征西将軍宮から御教書(みぎょうしょ)を授けられ懐良親王の一字を賜って懐朝と称した。
天正7年(1579)大友宗麟の耶蘇教以外の神社仏閣焼き払いにより熊懐家の史料の大半は消滅したが残った資料とそれ以降の史料は熊懐家文書として福岡県有形文化財と指定されている。この文書は現在、道の駅うきはの資料館に収められている。
熊懐家の先祖祭りが毎年10月20日に、うきは市賀茂神社で行われている。
系図
関連項目
- 賀茂神社 (うきは市)
- 波多氏 (古代)
- 笠置山の戦い
- ペトロ・カスイ・岐部神父 ローマで学んだ日本人バテレン。 父:ロマーノ岐部。 母:マリア波多。
- 母は宇佐神宮の神官として使える波多氏の出。 久家和州の子孫か?
参考文献
- 『笠置山集』
- 『熊懐家文書』福岡県有形文化財
- 『賀茂神社誌』著者:熊懐嘉文 (発行 賀茂神社 平成10年2月25日) ISBN4-924308-23-8 千年書房
参照
- ^ 日本書紀によると推古31年(623年癸未)副将軍として新羅を攻める。
- ^ 現奈良県高市郡高取町から明日香村南部
- ^ この梶の葉紋をどう利用したかは不明だが現在使用している抱き茗荷(だきみょうが)紋は、大友氏の抱き杏葉だきぎょうよう)紋を変形したものと思われる
- ^ この名前の見方は、<家名|苗字><通称|官位><氏(うじ)|本姓><姓(かばね)><諱(いみな)|本名>
- ^ 「熊懐平右馬太輔秦行景」との表記も見受けられる。