濱田友緒

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はまだ ともお

濱田 友緒
生誕 1967年(昭和42年)[1]
日本の旗 日本 栃木県芳賀郡益子町[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 多摩美術大学院美術研究科
職業 陶芸家
時代 昭和 - 平成 - 令和
団体 濱田庄司記念益子参考館[2]
濱田窯[3]
など
活動拠点 日本
肩書き 濱田庄司記念益子参考館館長[2]
濱田窯三代目代表
配偶者 濱田雅子
濱田晋作
親戚 叔父:濱田篤哉
家族 祖父:濱田庄司
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濱田 友緒(はまだ ともお、1967年昭和14年)[1] - )は、栃木県益子町の「益子焼」の陶芸家

濱田晋作の次男であり濱田庄司の孫にして濱田窯三代目当主である[3]
益子参考館館長も務める[2]

「濱田家三代目」として「益子焼の町・益子」の取りまとめ役及びその代表を担い、
日本全国各地と世界各国の美術館、大学、陶芸施設、百貨店、ギャラリー、大使館などで展覧会、講演会、陶芸ワークショップなど、様々な活動を行っている。

来歴

1967年(昭和42年)、濱田晋作の次男、濱田庄司の孫として栃木県芳賀郡益子町に生まれる[1]

物心が付く前の3歳の時に「陶芸家になりたい」と話し、祖父の庄司から大変可愛がられていた。 何度か庄司から絵付けの競争を持ちかけられては「こんな線は大人には描けない。子どもなは敵わない」と楽しそうに語ったというエピソードもある[4]

1985年(昭和60年)に栃木県立真岡高等学校を卒業後、父・晋作の意向もあり[5]、表現者としての素養を育むために多摩美術大学美術学部彫刻科に進学[4]。 彫刻や現代アートに触れながら民芸工芸、そして陶芸の現在の状況を把握し理解していった。 その一方で大学在学中も、休みの間は益子に戻り、父・晋作の下で陶芸修行も積み重ねていった[6]

1989年平成元年)、多摩美術大学を卒業後、同大学院美術研究科に進学。 大学院に進学した時にはさすがに両親を慌てさせたという[7]1991年(平成3年)大学院修了。 以降、濱田家三代目として家業を継ぐべく研鑽を積んでいった。

1995年(平成7年)、益子町使節団の一員として渡英。 バーナード・リーチが興した「リーチ・ポタリー」があった「セント・アイヴス」を始めとしてダーティントンロンドンなどを訪問。 「濱田庄司の孫」「濱田家三代目」として濱田庄司バーナード・リーチ以降に途絶えてしまっていた「セント・アイヴスと益子の交流」の再会に貢献した。[6][8]

2008年(平成20年)、セント・アイヴスの「リーチ・ポタリー復興記念式典」に出席。バーナード・リーチの孫であるジョン・リーチ氏とテープカットを行った[8]

同年、「濱田窯」三代目代表に就任[8]

2012年(平成24年)、公益財団法人濱田庄司記念益子参考館館長に就任。 以降、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災で被災した益子参考館と濱田窯の再建に尽力していく[8]

同年、益子町セント・アイヴスの友好都市締結のため益子町使節団の一員として渡英。リーチ・ポタリーロンドンなどを訪問する[8]

2013年(平成25年)、濱田庄司記念益子参考館が数多くの寄付金をもとにして再建し「益子参考館再建式典」を館内で開催する[8]

2015年(平成27年)、益子参考館内にある、震災で崩壊した後、再建を果たした濱田庄司の大窯登り窯を使用して、 震災復興を記念する「濱田庄司登り窯復活プロジェクト」を開催。 そのプロジェクトの会長に就任し、益子の陶芸家など約100名が参加し焼成を行い好評を博し、 2018年(平成30年)には第2回を開催。今度は益子笠間の陶芸家87名が参加し、益子参考館の大窯登り窯を使い焼成を行った た[6][8][9]

2021年令和3年)、「リーチ・ポタリー創立100年を記念する「益子×セントアイヴス100年祭」を益子町で開催し、その実行委員長を務める[8]

脚注

出典

参考文献

  • 下野新聞社『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日、239頁。ISBN 978-4882861096 

外部リンク