滝脇松平家

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滝脇松平家
家紋
変わり三つ扇
本姓 称・清和源氏
家祖 松平乗清
種別 武家
華族子爵
出身地 三河国加茂郡滝脇
主な根拠地 三河国加茂郡滝脇
凡例 / Category:日本の氏族

滝脇松平家(たきわきまつだいらけ)は、松平親忠の九男・乗清を祖とする松平氏の庶流。三河国加茂郡滝脇(現在の愛知県豊田市)を領したことから滝脇松平家と称した。須原屋版武鑑などで世良田松平氏と表記される場合もある。

概要

松平氏の分家であり、早くから松平宗家の家臣化していた。

乗清から5代目に当たる松平正勝は滝脇分家の麻生松平家の出だが滝脇本家を継いだとも伝えられている。正勝は徳川家康に旗本として仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で功績を立てたが夏の陣の天王寺・岡山の戦いにて討死したため、徳川秀忠の命で形原松平家松平家信の次男・重信が婿養子として家督を継承した。

重信は、正保2年(1645年)に従五位下丹後守に叙任、小姓組番頭、書院番頭、大番頭と役職を重ねて明暦2年(1656年)から駿府城代を務め、知行も1,200石から駿河国内5,000石まで増加した。

次代もまた形原松平家の丹波篠山藩主・松平典信の庶長子・信孝を養子を迎えた。信孝も累進を重ね、元禄2年(1689年)5月に若年寄となり、それまでの駿河6,000石に武蔵上野の両国の所領4,000石を加増され、合計1万石で大名となった。有能で知られたが病弱だった信孝は翌元禄3年(1690年)10月18日に36歳で死去した。

次代の 松平信治は旗本の戸田重恒の次男であったが、信孝の外孫にあたり、養子入りして継承した。信治の時に武蔵・上野の所領を駿河国に移され、同国小島の地に陣屋を構えた。駿河小島藩1万石は幕末まで続いた。

江戸藩邸

上屋敷は7代の信孝が旗本だった頃(天和3年(1683年))の武鑑に拠れば「飯田町の上」であったが、その後、元禄4年(1691年)の松會版武鑑では「大名かうし」、元禄8年(1695年)の松會版本朝武系当鑑では「ときははし内」、宝永2年(1705年)版では「すきやはし内」とあり、転々としていたことが確認できる。宝永7年(1710年)版武鑑では「小石川」となっており、以降は小石川で定着する。また、享保3年(1718年)の須原屋版武鑑では「小石川」となっていた表記が享保17年(1732年)の武鑑では「小石川富坂」と表記されるようになり、以降は「小石川富坂」に固定される。

下屋敷は元禄8年版には表記がないが、宝永2年版に「高田ばば」とあり、後に「本所四つ目」や「目白だい」に移転。

中屋敷は当初は所有していなかったが、幕末に「本所南わり下水に1屋敷所有」と記載されている。

江戸での菩提寺

江戸で藩主や家臣が死去した際に埋葬される菩提寺は、文政年間の須原屋版武鑑では2ヶ所記載され、浄土宗の西福寺(浅草)と英信寺(下谷坂本)とされる。但し、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師として「恋川春町[1]」の名で著名であり、滝脇松平家小島藩の年寄本役(家老)を務めた倉橋格の親子が内藤新宿浄土宗成覚寺に埋葬されているので、少なくとも家臣については厳密に定められていたわけではなかったことが確認できる[2]

系図

系図注

  1. ^ 篠山藩主・(形原)松平典信庶長子。
  2. ^ 旗本・戸田重恒次男。
  3. ^ 篠山藩主・松平信庸六男。
  4. ^ 村松藩主・堀直尭次男。
  5. ^ 丹波亀山藩主・(形原)松平信志六男。
  6. ^ 松江藩主・(越前)松平斉恒次男。
  7. ^ 高遠藩主・内藤頼寧九男。
  8. ^ 宇和島藩主・伊達宗城六男。
  9. ^ 男爵・古市公威四男。

参考文献

  • 『大武鑑・中巻』(橋本博、名著刊行会)
  • 『編年江戸武鑑・文政武鑑5』(石井良助監修・柏書房

脚注

  1. ^ 筆名を藩邸所在地の小石川春日町から命名。
  2. ^ ただし恋川春町は幕府から目を付けられており、死因にも自刃説がある、ということにも留意する必要がある。