滕胤

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滕 胤(とう いん、?-257年)は、三国時代武将政治家承嗣。北海国劇の人。伯父は滕耽、父は滕冑。妻は孫奐の娘。子に呉纂の妻。『三国志』呉志に伝がある [1]

家が代々劉繇の一族と通婚関係があったため、戦乱の時代に、劉繇を頼って長江を渡り避難してきたという。

孫権車騎将軍になると、滕耽を右司馬として迎え、滕耽が死ぬと後継がなかったため滕冑をとりたて、文書の整理や起草の仕事に就かせた。その父が死去したのは滕胤が12歳のときであったという(『呉書』)。

孫権は呉王になると、生前の滕冑の功績を考慮して滕胤をとりたて、都亭侯に封じた。外観は色白で、若くして行状や立ち居振舞いが見事であったため、孫権や群臣達から好印象を持たれ、20歳のときに公主を妻とし、30歳のときから丹陽太守・呉郡太守・会稽太守を歴任し、評判は良かった。

251年、重態となった孫権の見舞いに建業を訪れたとき、太常に任命されそのまま中央に留まった。252年の孫権臨終の際、諸葛恪孫峻と共に後事を託されている。孫亮が即位すると衛将軍も加えられ、その輔佐に当たった。諸葛恪がの討伐を行なおうとすると、これに反対したが、聞き入られなかった。留守役として都下督に任じられ、職務に励んだが、諸葛恪率いる呉軍は大敗してしまう。

やがて、諸葛恪の専横に憤った孫亮や孫峻らが暗殺計画を企み、諸葛恪を斬殺し、その一族をことごとく滅ぼした[2]。滕胤は諸葛竦(諸葛恪の子)の舅であったため辞職を願ったが、孫峻に拒絶された(「孫峻伝」)。

孫峻との関係は良好ではなかったが、表面的にはお互いに相手のことを立てるようにしたため、政治に混乱は生じなかった。爵位は高密侯に進んだ[3]

孫峻はたびたび北上して魏を討つことを計画したが、256年、滕胤を連れて石頭の陣で諸将のために見送りの宴会をし、驃騎将軍であった呂拠の陣に従者を引き連れて宿泊したときに体調を崩し、そのまま病気となって急死した(「孫峻伝」)。

孫峻の死後、従弟の孫綝侍中・武衛将軍に任命され、権力を継承した。呂拠はこの人事に不満を持ち、諸将と連名で滕胤を丞相とするよう上奏した。孫綝は滕胤を大司馬とし、武昌に駐屯させ、中央から遠ざけようとした。呂拠は滕胤に手紙を送り、共に挙兵して孫綝を倒そうと持ちかけた。呂拠の動きを察知した孫綝は、呂拠を従兄の孫憲達に攻撃させる一方で、滕胤の元には侍中・左将軍である華融と中書丞の丁晏を送り、呂拠を捕縛することと、滕胤はそのまま武昌に赴くよう命令した。滕胤は自身にも危機が迫っていることを察知し、華融達を軟禁し、兵士を集め孫綝を討つことにし、華融達を脅迫して孫綝を批判する手紙を書かせた。孫綝は将軍の劉丞に命令させ滕胤を攻撃した。滕胤は華融達が言うことを聞かないため殺害した(「孫綝伝」)。

滕胤はこのような事態に至っても、動じる様子がなく、人と談笑するときもいつも通りであった。呂拠の来援を信じて防御を続けていたが、結局呂拠は現れることはなく、孫綝の派遣した大軍の前に敗北し、捕らえられて一族皆殺しとされた。彼の妻のみは、兄の孫壱に救い出され、魏に亡命したという。

三国志演義』では、諸葛恪と仲が悪かったことになっており、孫峻のクーデターにも積極的に関与している。

  1. ^ 陳寿裴松之注)の『正史三国志』の「呉志」滕胤伝は、物語として次の孫峻伝を経て孫綝伝に続く特殊な形式となっており、滕胤が殺害されたことは孫綝伝に記述されている。これについて『三国志』の日本語訳者小南一郎ちくま学芸文庫版、初版1993年)による解説で、『三國志』の「呉志」が、韋昭らが書いた『呉書』に基づいていることを挙げ、陳寿が『呉書』の形式に則ったからという説と、『呉書』には記述されていない出来事であったため、この項のみ独自に陳寿が補ったため、という二つの説を挙げている。
  2. ^ 諸葛恪伝の注に引く『呉歴』によれば、この時、諸葛恪に対して身辺に気をつけるように警告したが、諸葛恪はこれを聞き入れず、殺されてしまったという。しかし、諸葛恪伝本文には「滕胤は暗殺計画を知らずに、孫峻が諸葛恪を殺すために開催した酒宴に出るように諸葛恪に勧めた」と書かれている。諸葛恪伝の注に引く『異同評』によれば、歴史家の孫盛は『呉歴』の記述の方が優れていると推測している。
  3. ^ 『呉録』によると、群臣達は孫峻を太尉、滕胤を司徒にすることを望んだが、孫峻に諂う者がいたため、孫峻のみが丞相となったことに大きく落胆したとある。