深溝松平家

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深溝松平家
家紋
重ね扇かさねおうぎ
本姓 称・清和源氏
家祖 松平忠定
種別 武家
華族子爵
出身地 三河国額田郡深溝
主な根拠地 三河国額田郡深溝
凡例 / Category:日本の氏族
深溝松平家の菩提寺である本光寺愛知県額田郡幸田町深溝

深溝松平家(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。

概要

起源

大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲るが、元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって深溝松平家は発足されたという。

一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。

戦国時代から安土桃山時代

その後も深溝城主であり続けた。2代・松平好景、3代・松平伊忠徳川家康岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠(家忠日記の著者)は酒井忠次の指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた。

天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。

3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。

江戸時代

慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩1万石の大名となった。ところが、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。

松平忠房の代に三河国刈谷藩丹波国福知山藩と転封を続け寛文9年(1669年)6万5,000石で肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、天領である長崎の監督と、九州諸大名に対する目付役を担った。以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵

現当主の忠承は大蔵省(現在の財務省)に入省。現在は国際通貨基金(IMF)に勤務している。

系図

脚注

  1. ^ 戸田正吉次男
  2. ^ 旗本・松平次章の子。
  3. ^ 旗本・松平次章四男。
  4. ^ 小笠原常春次男
  5. ^ 宇和島藩主・伊達宗紀四男。
  6. ^ 水戸藩主・徳川斉昭十六男。

関連文献

  • 木村充伸、伊東龍一、後藤久太郎、斎藤英俊、吉田純一、松井みき子、山口俊浩「深溝松平藩の屋敷地の変遷と屋敷指図 -深溝松平藩建築指図の復原的検討に基づく作図・表現技法に関する研究(1)-」『日本建築学会計画系論文集』第73巻第629号、日本建築学会、2008年、1601-1610頁、doi:10.3130/aija.73.1601 

関連項目