海道賢仁

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かいどう けんじ

海道 賢仁
2005年撮影
生誕 1969年1月25日
石川県金沢市
国籍 日本・石川県
別名

ぱぱら快刀

ゲーム仙人かいぽん
代表作 ナイトストライカー、
サルゲッチュ、
ICO
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海道 賢仁(かいどう けんじ、1969年1月25日 - )は日本のゲームデザイナー、ゲームディレクター、ゲームプロデューサー。

「ぱぱら快刀」「ゲーム仙人かいぽん」と名乗る事もある。

ゲームディレクター及びゲームデザイナーとして、アーケード、コンソール、ソーシャルゲームなどの多様なプラットフォームで数々のゲームを生み出している。

ゲームプロデューサーとしても活躍し『ICO』『ワンダと巨像』の両タイトルを手掛けた。

家庭用通信カラオケ機『Xー55』のハードウェア開発にも関わるなど、プラットフォームやジャンルを問わず、オールラウンドに才能を発揮している。

経歴

  • 1969年 - 石川県金沢市に生まれる。
  • 1987年 - (株)タイトーに入社(中央研究所)
  • 1997年 - (株)ソニー・コンピューターエンタテインメント
  • 2012年 - (株)ツェナワークス入社


幼少期
石川県金沢市の兼六園近くに生まれる。金沢を庭のように遊びまわる活発な少年に成長し、近隣の家々の間や庭を通る裏町・抜け道を探求し、独自の通行ルートを作る遊びに熱中し、独自ルートを作る遊びに興じていた。
少年時代
野球やドッジボール、かくれんぼなどの外遊びやトランプなどの室内遊びに加え、時には女子のゴム跳びやあやとりなどにも興味を持ち、多種な遊びを楽しんでいた。
子ども遊び中には、皆が楽しめるよう、年少や女子など参加者構成や人数の変動、遊び場を地形状況などによってその都度ルールをアレンジしていくことが得意だった。海道自身は、遊びを作ることやルール作りが好きで、後のテレビゲーム制作における下地はこの頃に形成されていったのではないかと語っている。
高学年になると本や漫画への興味が高くなり、図書館や書店にも通うようになっていった。当時人気が出ていた四大少年誌のほか、少女漫画も好きだったと語っている。
電子ゲームおよびテレビゲームなど家庭用ゲーム機の普及の第一次ブームでは、買い与えられた『テレビゲーム6』の他、独自に玩具店を巡り、様々なテレビゲーム機の試遊台で遊ぶなどしていた。ゲームセンターにも足繫く通い、客がプレイするゲーム画面をよく見学していたという。時には自分でプレイすることもあったようだ。
中学生~高校生時代
中学時代、音響機器に興味を持ち放送部へ入部。放送設備の設営や校内放送番組作りなど積極的な活動をする。
2年生になってからは『NHK講座マイコン入門』の書籍を購入し、マイクロコンピュータに対する理解を深めた。
同年、金沢に初のマイコン専門店が開店すると、店舗の許可を得て展示品のマイコンでプログラミングを独習する。
足繁く店舗に通いその店舗に出来たマイコンユーザーのコミュニティとも交流を深めより高度なプログラムテクニックを習得していった。3ヵ月ほどでBASICをマスターし、マシン語の勉強もした。
ある時、海道は両親に買ってもらったHC- 20にプログラマブルキャラクタージェネレーター領域があることに気付いた。彼は、自分で描いたドット絵を文字キャラクターとして自由に動かすことができることを活かしてシューティングゲームやドットイートゲームを制作し、プログラムを『マイコンBASICマガジン』へ投稿し掲載された。このようにプログラムをしては雑誌投稿を重ね小遣い稼ぎをしている。その中の1つ、PC-8001で制作したパソコン用ゲーム『倉庫内の死闘』はパッケージソフトとして販売された。後になり、これが最初の商業作品デビューではないかと語っている。
コンピューターが世間で一般的になる中、海道は中学卒業後に工業高校の電子科へ進学。マイコン同好会に入部する。彼は部活動を通じてFM-8をはじめとする各種のコンピュータハードに触れていた。学校からの帰り道には、近隣のゲームセンターや駄菓子屋ゲームコーナーなどへ通い、店内コミュニティでの交流や情報交換などを楽しんでいた。ゲームセンター以外には、テクノポリスなどの専門誌を購読しファミリーコンピュータの改造を行なったり、友人の家で『テグザー』をはじめとするPCゲームを遊ぶこともあった。
マイコン同好会の活動では、文化祭の展示として、手作りゲームセンターを運営。展示の成功を受け自らの手腕に自信を深め、ゲーム会社への就職を決意するに至った。
タイトー時代
(株)タイトーに入社。ゲーム開発拠点である中央研究所にて、アーケードゲームの開発部門に配属される。そこで開発中止寸前のゲームの手直しを命じられ、デビュー作『地獄めぐり』を完成させる。海外市場を含め5~6千枚程度の販売数であった。
以降も、アーケードゲームのゲームデザイナーとして、大型筐体の『ナイトストライカー』、プロレスゲーム『チャンピオンレスラー』、回転スクリーン機能を応用したアクションゲーム『キャメルトライ』、パンチングゲーム『ソニックブラストマン』を矢継ぎ早に開発する。
『ソニックブラストマン』で考案されたエレメカゲーム機にディスプレイモニターを付随されるコンセプトは、それ以降のエレメカ機製品の主流となった。
その後も2画面筐体の『ウォリアーブレード』、画面固定アクションゲーム『デッドコネクション』を開発する。
コンシューマーゲームではメガCD版『ナイトストライカー』移植に関わり、全体監修と微調整作業を行なった。
家庭用通信カラオケ『X-55』のハードウェア開発では、ユーザーインターフェース設計や周辺機器の企画開発のほか、同ハードウェアにおけるゲーム配信事業の運営サービスフォーマットの整備を担当した。また『X-55』専用のパズルゲーム、『クレオパトラフォーチュン』の企画制作も行なう。この作品を最後に1997年4月にタイトーを退社する。
ソニー・コンピュータエンタテインメント時代
タイトー退社後、(株)ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)に移籍。PlayStation用ゲームソフト制作に携わり、世界初のデュアルショック専用ゲーム『サルゲッチュ』のゲームデザインを行なう。
プロデューサーとしては『ICO』『ワンダと巨像』の両タイトルを手掛けた。また、PlayStation Vitaの開発では、システムアプリ『near』のプロジェクトに参加している。
2012年8月、SCEを退社。
ツェナワークス時代
(株)ツェナワークスにて、『ドラゴンクエスト モンスターパレード』にゲームプランナーとして参加している。

作品一覧

タイトー時代

ソニー・コンピュータエンタテインメント時代

  • サルゲッチュ(1999年 PlayStation ゲームデザイナー)
  • ICO(2001年 PlayStation 2 ゲームプロデューサー)
  • ワンダと巨像 (2005年 PlayStation 2 ゲームプロデューサー)

ツェナワークス時代

脚注

1,【第7回リレーブログ クリエーター編】”ナイトストライカー”ぱぱら快刀こと海道様[前編](Beep2018年12月12日 )2023年11月13日閲覧。

2,【第7回リレーブログ クリエーター編】”ナイトストライカー”ぱぱら快刀様こと海道様[後編](Beep2018年12月21日)2023年11月13日閲覧。

3,コンティニュー vol.5 出版社 太田出版 出版日 2002年6月1日 ISBN-13978-4778340384

参考文献

  • コンティニューvol.5 「ナイトストライカー」「ICO」を創った男(2002年)
  • ゲームの流儀 単行本 – (2012年6月 寄稿)

外部リンク