津軽寧親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Tribot (会話 | 投稿記録) による 2012年3月24日 (土) 01:14個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (bot: WP:BOTREQ#令制国の守・介カテゴリの除去 oldid=41765954)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
津軽 寧親
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和2年1月17日1765年3月8日
死没 天保4年6月14日1833年7月30日
改名 和三郎(幼名)、寧親、向陽館・広州(号)、
如山・栖鶴・琴亭(俳号)
墓所 東京都台東区の津梁院
官位 従五位下、出羽守、従四位下、
侍従、右京大夫
幕府 江戸幕府
陸奥国黒石藩当主→弘前藩藩主
氏族 津軽氏
父母 父:津軽著高、母:黒田直純の娘
養父:津軽信明
兄弟 寧親杉浦寿武
正室:杉浦正勝の娘・福姫
側室:伊東英保の娘・光円院、
平沼養敬の娘・桂法院、
糸屋小兵衛の娘・密乗院、
板倉屋長兵衛の姉・春野、
梅月堂の叔母・高瀬、ほか多数
典暁信順、娘(安藤信義正室、のち板倉勝職継室、岩城隆喜継室)、
娘(堀直央正室)、娘(森忠哲正室)
テンプレートを表示

津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代大名交代寄合黒石藩の第6代当主。のち陸奥国弘前藩の第9代藩主。

生涯

明和2年(1765年)1月17日、陸奥国弘前藩分家の黒石藩第5代当主・津軽著高の長男として生まれる。安永7年(1778年)5月6日、4000石の黒石津軽氏の家督を継ぐ。この際に、時の本家弘前藩第7代藩主・津軽信寧より偏諱を受け、寧親改名した。寛政3年(1791年)、信寧の子で本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ(黒石藩は長男・典暁が継承)。

藩政においては信明の改革を受け継いで、他藩から開拓者を求めて人寄役を設置し、寛政8年(1796年)には藩校・稽古館を創設する。寛政9年(1797年)には寛政律という法令を制定したが、信明には遠く及ばない人物で、信明時代に行なわれていた武士による半農農村復興政策は失敗に終わった。

文化2年(1805年)、蝦夷地の警備における功績[1]により、幕府より高直しが行なわれて7万石、後に10万石の大名となった。四品に叙任された翌年の文化6年(1809年)には支藩である黒石藩を立藩している。しかし相次ぐ改革と蝦夷地警備などにおいて出費が莫大なものとなり、それを賄うために領民に重税を強いたため、文化10年(1813年)に民次郎一揆が起こった。

文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、相馬大作事件と呼ばれる暗殺事件も発生している。このような中で失意に落ちた寧親は、文政8年(1825年)4月10日に家督を次男の信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。

以後は俳句の世界に没頭して、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。

主要家臣

文政4年の須原屋版江戸武鑑に見られる主要家臣

家老

津軽監物、津軽頼母、渡辺将監

城代

津軽式部

番頭

西舘宇膳(用人兼務)、高倉六郎兵衛(用人兼務)、津軽右近、溝江伝左衛門、竹内源太夫、沢与左衛門、斉藤小左衛門、堀五左衛門、杉山八五郎、津軽俊吉

【用人(番頭兼務者除く)】

若松伴太夫(定府)、高杉左兵衛、笠原八郎兵衛城使兼務)、平岡群蔵(定府、側用人及び附兼務)、三橋左十郎(側用人及び附兼務)、安西助市(定府、側用人兼務)

【城使(用人兼務者除く)】

河合半右衛門

偏諱を与えられた人物

脚注

  1. ^ 最も知られる事例を挙げる。オホーツク沿岸の宗谷・斜里・樺太を担当地とされた藩は1807年、宗谷に300人の藩士を送り込んだ。このうち斜里に陣屋を構築した分隊100人は旧暦9月に現地に入ったが、9月28日には降雪を観測する気象条件の中越冬を体験することになった。乏しい食料から脚気などの病気に苦しみ、越年時には既に14名が死亡。厳冬期ではあるが動けるものを動員し、宗谷に駐屯する本隊を目指して転地兼援助要請を三度派遣したが、全て途上で全滅した。翌年6月に迎えの船が来た際には合計72名が死亡済、津軽に生還できたのは15名しかいなかった。のちにあまりに苛酷であるとして、宗谷の担当地は増毛に変更されたが、他にも1805年に択捉島に派遣された津軽藩士30名のうち、11名が死亡など、1793年から1822年の間に藩士8694人(実際は相次ぐ動員に人員が不足し、武士身分だけでは足りず、職人や農民も含まれる)が蝦夷地警固に派遣され、295人が現地で死亡している。これらの藩の犠牲と努力が幕府に評価された上での、家格の向上である。