水野元知

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水野 元知
時代 江戸時代
生誕 寛永20年(1643年
死没 延宝8年9月8日1680年10月30日
別名 三左衛門
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
上野国安中藩
氏族 水野氏
父母 父:水野元綱、母:中川秀成
兄弟 元倫、女子(早世)、女子(早世)、女子(那須資國妻)、元知
水野忠善
元朝
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水野 元知(みずの もととも)は、江戸時代前期の大名上野国安中藩の第2代藩主。三左衛門[1]。正室は岡崎藩藩主・水野忠善の娘。側室に八重。

生涯[編集]

寛永20年(1643年)、水野元綱の次男として生まれる。母は中川秀成の娘[1]

慶安4年(1651年)3月、兄・元倫が早世したため嫡子となる[1]承応元年(1652年)11月28日、将軍徳川家綱に拝謁する[1]明暦3年(1657年)12月27日、従五位下信濃守となる[1]寛文3年(1663年)から翌年にかけて、父・元綱とともに領内2万石、39か村の検地を行った[2]

寛文4年(1664年)10月26日、襲封する[1]

寛文7年(1667年)5月23日、発狂して妻を斬りつけ、自害しようとする[1]。同月28日、所領を没収され、水野忠職に預けられた[1]。子・元朝に2,000俵(のちに2,000石)が給された。

延宝8年(1680年)、死去した[3]。37歳[3]

発狂の理由は、正室と八重との間の諍いであると言われている他にも諸説あり、詳しいことは分かっていない。八重は、正室により九十九川に生き埋めにされたと伝わる[4]

お八重伝説[編集]

元知の刃傷沙汰から「お八重伝説」が生まれた[5]安中市には「八重が淵」の碑がある[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 寛政譜 1923, p. 874.
  2. ^ 安中市誌編纂委員会 1964, pp. 152–154.
  3. ^ a b 山田 1981, p. 78.
  4. ^ 安中市誌編纂委員会 1964, p. 154.
  5. ^ a b 安中観光まち歩きコース「襄・城ヒストリート」のご案内”. 安中市 (2023年7月18日). 2024年5月27日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]