死手譲渡

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死手譲渡(ししゅじょうと、mortmain、Mainmorte)とは、法律用語で、古フランス語に由来する。現代的に近い意味としては、課税対象から逃れるために財産の名義を変更(教会)したことに相当する。譲渡側は、団体として永代譲渡することで、財産権の不胎化を意図している。(歴史的には、宗教所においてなされたが、死手譲渡の禁止が存続する今日、現代においては、会社や公益信託など見られる。)こうして土地が遺産相続人に永代的に不動産復帰し、受け渡される仕組みだった。(この際、いかなる封建的課税もなかった。)今日、死手譲渡は、中世の法制定で禁止されながら、死手譲渡の概念は多くの国々で復活している。なおも存続している証拠に、株式の永代保有に関連するトラスト法がある。


歴史的比較

フランスの例

死手譲渡という用語は、次のような感じで使われる。

  • des personnes physiques: les serfs (les gens de mainmorte)肉体の人間:農奴(死手譲渡下の人々)
  • des biens matériels (les biens de mainmorte)実質的な地所(死手譲渡の地所)

死手譲渡は、中世フランスで、農奴に課された無能力である。その目的は、地所が領主の権限で外部の人間へと譲渡されるのを防ぐことであった。生涯にわたって、農奴は地所において人間としての自由を享受することになる。かくして領主の許可により荘園に配置されたものの、死に際して遺産の裁量権を奪われ、"Le serf mort, saisit le vif son seigneur".(「農奴が死んだら、その生身は領主のもの」)という原則に従い領主に地所が返納された。 12世紀以降、死手譲渡は軽減される。幾つもの地域において、領主は動産を単体で受けることもなく、家畜を頭数のみで受けることもなく、(droit du meilleur catel:家畜総数に関する権利)相続人からの特定課税による支払額を受け入れた。17世紀以降、死手譲渡は消滅し、ルイ16世による命令で廃止された。 死手譲渡における土地は、修道院や養老院により所有された土地である。所有権は法律において制限されていないので、死亡による地所の名義変更から免れるのが意図したところである。また代償として、王に対する負債の償還、領主の補償金、生死の権利、新しい後得財産などについて領主の決定権が発生する。 死手譲渡における地所の大量増加を防ぐのに、相続権の緩和、共有地を確定させた幾つ物王の勅令、王の調査および承認の後に、死手譲渡の地所の獲得がなされた。( 1629年1659年1666年1738年におけるフランドルエノー州1739年におけるメッツ、殊に1749年における王に対するもの。)王、市、州により発券された借金による獲得ということはなかった。

イングランドの例

中世の間、イングランドといった国々では、教会がかなりの不動産を得た。教会と宗教的秩序は、教会の土地(修道院長・司教)を管轄官庁とは関係のないものと見なしていた。土地は永代所有権を付与されていたので、土地所有者の死別を理由に、土地が王に帰属することはなかった。このことは、高い身分が、特に戦争に対する王に対する奉仕によって保証されるという、「土地の死守」・「封建的実践」とは対照的である。多くの封建国家から教会が土地の広い占有を保証され続けたことを示しており、王権と教会との緊張が増加する要因になった。 1215年マグナ・カルタ及び1259年ウェストミンスター条項を含めて、保有する土地に対する教会の権力は、同じく初期の法制定にも見られるが、教会の持つ財産権を束縛する死手譲渡の法制定が、1279年1290年と続けて、エドワード1世により作られた。こうした条項によって、法人に土地が授けられる前に、王の権威付けが必要であることになった。 法制史において死手譲渡は重要な役割を果たしたし、中世には法自体が、こうした死手譲渡に対処していくものだった。例えば、Thornton V Howe(ソルントン・ホー五世)の司法的決定によると、Joanna Southcott(ジョアンナ・スースコット)の予言書出版に対する信用とは宗教的進歩に対して寛大であるそうだ。慈善活動が宗教的前進であるかどうか決定する制約を低くすることで、決定を妨げているが、そのとき死手譲渡に反対する法制定が強行され、その決定において信用が無効となり、課税と結びついた風説を吹き込ませたならば、全く異なった判決理由が通ったであろう。

関連項目