機動隊 (ドイツ)

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ドイツの機動隊(Bereitschaftspolizei、直訳すると即応警察、常時出動態勢にある警察の意味)は、ドイツの警察組織の支援部隊かつ即応部隊である。

連邦共和国

ドイツの内務省はドイツにある全ての「機動隊」の展開状況をモニター・調整を行うベルリンの「機動隊」オフィスを管理している。同様に内務省は武器、車両、他の装備の提供も行なっている。

連邦

ドイツの連邦警察局はドイツにある11の即応用の大隊(「機動隊大隊」(Bundespolizeiabteilung)と呼ぶ)を管理している。これらの部隊は、その任務におけるどの様な状況においても連邦警察を支援し、また、「地方」(Länder)の警察を支援する。彼らは、災害や反乱が起きた場合に地方自治体を支援するための訓練も行なっている。彼らは、装甲車、バス、放水車、銃火器を装備しているだけではなく、移動手段や指揮監督を行うための車両も装備している。

地方/州

州の「機動隊」の部隊は「地方警察」の一部であり、必要に応じて群集の管理や都市警察(Schutzpolizei、Schupos)を支援する。一番の任務である群集の管理を除いて、一部の州では、これらの警察支援部隊での訓練と任務で3年間新人の警官の訓練を行う場合がある。暴動や、市民反乱、大災害等の場合に、ある州の部隊が、他の州の警察を支援するために派遣される場合がある。

「機動隊」は兵舎に駐屯し、軍隊と同様の部隊規模の構成をとる。訓練された100~150人の部隊は、100人隊(Hundertschaften)と呼ばれる急速展開部隊の小隊となる。ほとんどの「地方」における「機動隊」の分遺隊は、600~800人の人数のいくつかの大隊からなり、6大「地方」では、連隊規模の「機動隊」を編成している。彼らの任務は日々、場所場所により異なっている。ハンブルクで地下鉄のパトロールを行なったかと思えば、歓楽街における摘発を支援し、大規模な宣伝やスポーツイベントに参加したりする。部隊は他の「地方」に急速に展開可能な様に輸送手段や、テント、食料を装備しており、外部の支援に頼る必要は無い。

ドイツ民主共和国時代

東ドイツの内務省は、「人民警察」(Volkspolizei)の即応部隊として独立部門(Volkspolizei-Bereitschaft)を保有していた。それは、12,000人から15,000人(情報ソースにより異なる)の規模の人員を有し、21個大隊の「人民警察」の即応部隊を構成していた。 通常、東ドイツの各県に1つの即応部隊があり、労働者人口が多いハレライプツィヒマクデブルクの各県とポツダム県には2個大隊が配備されていた。東ベルリンの人民警察の党幹部会は、バスドルフに3個部隊を配置していた。

各即応部隊は、次の組織をとっていた。

  • 指令部門
  • 4つの即応中隊
  • 支援中隊
    • 対戦車小隊(45mmもしくは57mm砲3門、後にATGMとなる)
    • 砲兵小隊(76.2mm ZIS3野砲/対戦車砲3門)
    • 迫撃砲小隊(82mm迫撃砲3門)
  • 以下の部隊を持つ本部とスタッフ
    • 通信小隊
    • 工兵小隊
    • 化学戦小隊
    • 偵察小隊
    • 輸送小隊
    • 補給小隊
    • 指揮部門
    • 野戦病院

これらの部隊は、軽歩兵もしくは通常の歩兵の兵器で武装しており、装甲兵員輸送車、放水車、バス等を保有していたほか、野砲や迫撃砲などの重火器も保有するなど、ソ連の内務省軍の影響がうかがえる。彼らの制服は、灰と緑の「人民警察」の通常の制服であった。彼らは1953年6月17日における東ドイツ工業地帯での暴動のような社会的な暴動における有効な部隊として、人々に対して使用された。そのため、SEDは政治的な安定を保つための即応部隊である重要性が増加した。

なお東ドイツの国家人民軍は発足当初、兵営人民警察(Kasernierte Volkspolizei, KVP) と称していた。形の上では当時の内務省に属していたが、実態は軍事組織であって一般の人民警察とは異なった。