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樊建

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樊 建(はん けん、生没年不詳)は、三国時代政治家(蜀漢)に仕えた。長元荊州義陽郡義陽県の人(「諸葛亮伝」が引く『晋百官表』)。『三国志』蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。

皇帝劉禅の時代、丞相諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。251年には校尉の地位であったが、このときへの使者として赴いた。呉の皇帝の孫権は重病であり樊建と直接対面することはできなかったため、諸葛恪に対し、樊建の人物について、かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。諸葛恪は宗預に才能、見識では及ばないが、性質ではまさっていると評した。

後に侍中、尚書令となった。261年諸葛瞻と董厥が平尚書事となると、樊建と三名で国政を預かることとなった。劉禅が信任する宦官の黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建達はお互いにかばい合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。

263年が蜀に侵攻し、諸葛瞻を綿竹で下した魏の鄧艾軍の前に成都の劉禅は降伏を余儀なくされた。翌年春、劉禅は一家をあげて洛陽に移送されることになると、樊建は董厥と共にこれに従った。洛陽に着くと他の蜀の群臣達とともに列侯に封じられた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心の鎮撫の任務につとめたという。

西晋の給事中であったとき、武帝に諸葛亮の治世について質問されると、これを賞賛した。武帝もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都で無実の罪で誅殺されていた鄧艾の赦免を平伏して嘆願した。武帝は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

小説『三国志演義』では諸葛亮に従って文官として北伐に参加している。