森盲天外
森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元年8月13日) - 1934年(昭和9年)4月7日)は、愛媛県会議員、余土村長、道後湯之町長を務めた政治家である。本名:森 恒太郎(もり つねたろう)[1]。
概要
伊予国伊予郡西余戸村(現・愛媛県松山市)に生まれた。愛媛県北予変則中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、同人社で学び、1890年(明治23年)に26歳の若さで愛媛県会議員となる。しかし、眼病を患い、東京で治療を受けたものの回復せず失明。郷里(余土村)への帰省を余儀なくされる。
1898年(明治31年)2月、余土村長になる。村長在任中に「余土村是」を作り、耕地の改良や青年教育を行うなど村の発展に務めた。盲人村長として、謂われ無き差別を受けながら[2]も、敢然と闘った。1907年(明治40年)に村長を勇退し、私立愛媛盲唖学校(現・愛媛県立松山盲学校)を設立。盲教育にも力を注いだ。翌1908年(明治41年)に自伝『一粒米』を著し、失明から心眼を開くまでの事情を記した。1923年(大正12年)11月より、「天心園」を開き青年教育を施した。
1932年(昭和7年)10月に道後湯之町長に就任。しかし在任中に病に倒れ、1934年(昭和9年)4月7日に死去。71歳没。
俳句に優れ、正岡子規に師事した事もある。子規より「天外」の俳号を受けたが、自身は「盲天外」と称した。
経歴
- 1864年(元治元年) - 8月13日、伊予国伊予郡西余土村(現・愛媛県松山市)に生まれた。
- 1876年(明治9年) - 愛媛県北予変則中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。
- 1881年(明治14年) - 東京に出て、同人社で学ぶ。
- 1890年(明治23年) - 愛媛県会議員に当選。しかし、議員在任中に眼病を患い、東京で治療を受けた。
- 1896年(明治29年) - 治療の甲斐無く、失明。議員を辞し、郷里(余土村)に帰郷。
- 1898年(明治31年) - 2月、余土村長に就任。
- 1900年(明治33年) - 「余土村是」を作り、村政の基礎を作った。
- 1907年(明治40年) - 余土村長を勇退し、松山市へ移住。私立愛媛盲唖学校(現・愛媛県立松山盲学校)を設立。
- 1908年(明治41年) - 自伝『一粒米』を著した。
- 1923年(大正12年) - 11月、天心園を開き、青年教育に従事した。
- 1932年(昭和7年) - 10月、道後湯之町長に就任。
- 1934年(昭和9年)- 4月7日、町長在任中に死去。
脚注
- ^ 視覚障害偉人館-政治関係者の部屋(シズピカネットのHP)
- ^ 一例を挙げると村長に当選した時、愛媛県が当初盲目であることを理由に村長当選を認可しなかった。
出典
- 森盲天外『一粒米』、青葉図書、1977年
- 愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第3巻 森盲天外・山之内仰西・広瀬宰平』、愛媛県教育会、1983年
- 近代史文庫『郷土に生きた人びと-愛媛県-』、静山社、1983年
- 愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 人物』、愛媛県、1989年
関連項目
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『森盲天外』 - コトバンク
- 愛媛の偉人・賢人の紹介(森盲天外)
- 盲人村長 森恒太郎という人(森恒太郎伝 川東竫弘松山大学経済学部教授著)