桂圓枝 (3代目)
3代目 桂 圓枝 | |
本名 | 香川 伸雄 |
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生年月日 | 1931年12月21日 |
没年月日 | 2011年2月16日(79歳没) |
出身地 | 日本・香川県観音寺市 |
師匠 | 3代目桂三木助 2代目桂枝太郎 |
名跡 | 1. 桂三多蔵(1952年 - 1954年) 2. 桂枝三松(1954年 - 1955年) 3. 桂好太郎(1955年 - 1969年) 3代目桂圓枝(1969年 - 2011年) |
出囃子 | デカンショ節 |
活動期間 | 1952年 - 2011年 |
活動内容 | 新作落語 |
所属 | 落語芸術協会 |
3代目桂 圓枝(かつら えんし、1931年12月21日 - 2011年2月16日[1])は、日本の落語家。落語芸術協会に所属していた。出囃子は『デカンショ節』。本名は香川 伸雄(かがわ のぶお)。
来歴・人物
香川県観音寺市出身。香川県立観音寺第一高等学校卒業。
政治家と親交があり、大平正芳とは同郷であった。もともと学校時代から演劇が好きで、当時なかった演劇部の設置に大運動を行い、もっぱら三枚目の役柄を演じた[2]。
1950年(昭和25年)観音寺第一高校卒業後、高松地方検察庁観音寺支部に1年余り勤務していたが、たまたま堺市で商売を営む実兄を訪ねて、初めて落語に連れて行ってもらった[2]。その時の出し物が三遊亭圓生の“子かすがい”で、その芸術性に惹かれて一家親族に反対されるが、1952年(昭和27年)5月、3代目桂三木助に入門[3]。
桂三多蔵(かつら みたぞう)で初高座。落語の世界だけでなく芸能界というところは、修業の厳しさを覚悟して入ったが、そんなに苦しかったこともなかった。それでも内弟子の時は雑巾がけ、前座の時は太鼓を叩くのが役目で、間違うとバチで頭を叩かれた[2]。
1954年(昭和29年)9月、2代目桂枝太郎一門に移り枝三松(しさまつ)に改名。1955年(昭和30年)4月、二ツ目に昇進、桂好太郎と改名。覚えた演題は七十を数え、なかでも色物が得意であった。目つき、仕草など女の情感を出すのが旨く“おかまの好太郎”の異名がある[3]。二つ目時代春風亭柏枝(後の7代目春風亭柳橋)、三遊亭金遊(後の4代目三遊亭小圓遊)と共に池袋三羽烏と言われた。
1969年(昭和44年)4月17日、四国出身者で初めて真打に昇進、3代目圓枝を襲名[3]。主に新作落語を演じた。
2011年(平成23年)2月16日、腹膜炎のため東京都文京区の病院で死去。79歳没[1]。
脚注
- ^ a b 桂円枝氏死去 落語家 - 47NEWS(よんななニュース)
- ^ a b c 『四国新聞 東京のさぬきっ子』(四国新聞社)(1965年8月11日)
- ^ a b c 『四国新聞 郷土人脈43』(四国新聞社)(1969年4月19日)
参考文献
- 『日本芸能人名事典』(三省堂)(1995年)
- 『香川県人物・人材情報リスト 2011』(日外アソシエーツ)(2011年)