柏尾誠一郎

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オリンピック
男子 テニス
1920 ダブルス

柏尾 誠一郎かしお せいいちろう, 1892年1月2日 - 1962年9月6日)は、大阪府出身の男子テニス選手。

経歴

旧制・大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1920年アントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。

後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。大学卒業後は三井物産に勤務し、ニューヨーク駐在員として働いた。柏尾は1918年1919年の2度全米選手権の男子シングルスに出場したが、1918年は3回戦、1919年は2回戦で敗退している。

1920年アントワープ五輪で、柏尾は男子シングルスとダブルスの2部門に出場した。シングルスでは3回戦で敗退したが、熊谷一弥とペアを組んだダブルスで決勝進出を果たす。金メダルをかけた決勝戦では、イギリスマックス・ウーズナムオズワルド・ターンブル組に 2-6, 7-5, 5-7, 5-7 で敗れた。こうして柏尾誠一郎は日本人のスポーツ選手として、史上初めてのオリンピック・メダルを獲得した選手になり、オリンピックの歴史にも名前を残すことになった。なお、アントワープ五輪でメダルを獲得した日本人選手は、熊谷と柏尾の男子テニス1種目のみであった。(熊谷本人は後日、単複の銀メダルについて「日本代表選手として勝つべき試合に敗れ、悲憤痛恨の涙に暮れた」と回想している。)

1921年に日本が初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップに出場した時、柏尾は熊谷一弥、清水善造とともに日本代表選手に選ばれ、「アメリカン・ゾーン」のチャレンジ・ラウンド決勝まで勝ち進むがアメリカ・チームに5戦全敗で敗れる。このチームで柏尾はマネージャー的な存在であった。選手としては1923年に出場し、清水善造とペアを組んだダブルスで「アメリカン・ゾーン」準決勝のカナダ戦と決勝のオーストラリア戦に出場した。選手引退後の柏尾についてはほとんど知られていない。

外部リンク

参考文献

  • Erich Kamper & Bill Mallon, “The Golden Book of the Olympic Games” (オリンピックのゴールデン・ブック) Vallardi & Associati, Milan, Italy (1992) ISBN 88-85202-35-7 柏尾の生没年月日が分かる文献。