松平斉孝

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松平斉孝
松平斉孝
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年1月3日1788年2月9日
死没 天保9年2月3日1838年2月26日
改名 恰丸(幼名)、康孝(初名)、斉孝
別名 慎三郎(通称
戒名 成裕院
墓所 岡山県津山市西寺町の泰安寺
官位 従四位上越後守左近衛中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
美作津山藩
氏族 美作(津山)松平家
父母 松平康哉松平康乂
兄弟 仙千代、康乂斉孝維賢信行時敏近藤用明、富丸、松平知豊正室
松平治好娘箏
中西氏、法乗院
慶倫直温定安、睦、従、恂子、
山口弘封正室ら
斉民
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松平 斉孝(まつだいら なりたか)は、江戸時代後期の大名美作国津山藩7代藩主。官位従四位上越後守左近衛中将

略歴

5代藩主・松平康哉の三男として誕生。初名は康孝

文化2年(1805年)に兄で6代藩主・康乂の死去により、その養子として家督を継ぐ。この頃、津山藩は御家門であるにも関わらず、石高や待遇において冷遇されていた。これに不満を持った康孝は、幕府にかつての10万石への復帰を訴えた。嫡男がいなかったためと家格復活を実現させるため、幕府からの要請もあり、文化14年(1817年)に11代将軍徳川家斉の十五男・銀之助(後の斉民)を養嗣子として迎えた(10年後に四男・龍次郎(のちの9代藩主慶倫)が誕生する)。これにより、津山藩は5万石を加増され、昔の10万石に戻されることとなり、官位・家格も向上した。

天保2年(1831年)11月22日、隠居して家督を斉民に譲り名を斉孝と改名した。天保9年(1838年)2月3日に死去。

系譜