松平忠利 (久松松平家)

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松平忠利
時代 江戸時代前期
生誕 慶長10年(1605年
死没 元禄元年4月29日1688年5月28日
別名 通称:采女、号:意閑
戒名 日潤
墓所 谷中了俒寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 久松松平家康元
父母 父:松平忠良、母:側室
兄弟 忠利梅渓院憲良康尚
金田房能室、久姫、佐久間勝友正室、
土屋某室
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松平 忠利(まつだいら ただとし)は、江戸時代前期の旗本通称は采女。号は意閑。

略歴

慶長10年(1605年)、下総国関宿藩2代藩主で美濃国大垣藩初代藩主松平忠良の長男として、関宿にて誕生した。母は忠良の側室。

元和9年(1623年)、2代将軍徳川秀忠上洛の際、大垣城で拝謁し、時服五領を賜った。寛永元年(1624年)、父の死去により弟だが嫡出子の憲良が家督を相続して、信濃国小諸藩に転封となった。忠利は同国小県郡3000石・佐久郡2000石(祢津知行所)を分知され、寄合に列した[1]

寛永年間、度々江戸城西の丸の石垣や惣堀の普請を承り、延宝6年(1678年)7月10日に致仕した。元禄元年(1688年)に江戸で死去。享年84。法名は日潤。谷中の了俒寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続し、久松に改姓した。

参考文献

脚注

  1. ^ 一時、交代寄合であったとする説がある。