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松平容衆

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松平 容衆
時代 江戸時代後期
生誕 享和3年9月15日1803年10月30日
死没 文政5年2月29日1822年4月20日
改名 金之助(幼名)→容衆
神号 欽文霊神
墓所 福島県会津若松市東山町会津藩主松平家墓所
官位 従四位下、侍従肥後守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
陸奥国会津藩
氏族 会津松平家
父母 父:松平容住、母:石川氏
兄弟 容衆、公式上の兄弟:容敬
正室:元姫(貞鑑院、徳川家斉の十五女)
養子:容敬
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松平 容衆(まつだいら かたひろ)は、陸奥会津藩の第7代藩主。会津松平家7代。

第6代藩主松平容住の次男として生まれる。父が早世したため、わずか4歳で家督を相続し、藩主となる。文化10年(1813年)には将軍徳川家斉に拝謁し、従四位下侍従肥後守に叙任、ついで文化13年(1816年)には左近衛権少将となるが、文政5年(1822年)にわずか20歳で死去した。

嗣子なく、松平義和高須藩相続前にもうけた三男で、水戸徳川家から極秘に引き取られ、弟ということになっていた容敬が家督を相続した。

このため、公式上は容敬まで続くことになる徳川秀忠の男系は、実際には容衆の死により完全に断絶した。

容衆の代の家臣

文政年間の容衆の代の主要家臣は以下のとおり。

家老若年寄など】

簗瀬三左衛門、西郷頼母、田中志摩、内藤助右衛門、井上兵馬、諏訪伊助、丹羽織之丞、原田又助、神保内蔵助、北原出雲、山崎小助

用人

西川治右衛門、土屋長蔵、高津伝吾、一柳新三郎、上田伝治、広川刀四郎、倉沢平次右衛門、荒川登、竹本新左エ門、井深内記、梁瀬幾之進、春日矢柄、大原六太夫

【城使】

相沢平右衛門、赤羽清次、三宅多門