松平勝隆

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松平 勝隆
時代 江戸時代前期
生誕 天正17年(1589年
死没 寛文6年2月3日1666年3月8日
改名 忠左衛門(幼名)→勝隆
戒名 本誓院殿然誉覚雲大居士
墓所 千葉県富津市佐貫の勝隆寺
官位 従五位下、出雲
幕府 江戸幕府
上総国佐貫藩
氏族 能見松平家
父母 父:松平重勝、母:鳥居忠吉の娘
兄弟 重忠重長重則重信勝隆岩瀬氏与
正室:芳樹院九鬼守隆の娘)
重隆
養子:勝広重治養女松平重則の娘、伊東長治室)、養女松平重長の娘、品川高如室)
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松平 勝隆(まつだいら かつたか)は、上総佐貫藩の初代藩主。

生涯

天正17年(1589年)、徳川家康の重臣松平重勝の五男として生まれる。初め母方の伯父鳥居元忠に養育されて、その所領であった陸奥国磐城平で養育された。慶長18年(1613年)から家康に仕え、後に第2代将軍徳川秀忠に仕えて大番頭奏者番などを歴任した。中でも代表的な大任であったのが松平忠輝への除封申し渡しである。

寛永11年(1634年)、伊予松山藩蒲生忠知が死去し、嗣子がいないために国政を代わりに勤め、松平定行への城引渡しの役も勤めた。

寛永15年(1638年)、上総国佐貫藩主となって1万5000石を領した。寛文2年(1662年)9月、家督を養子の重治に譲って隠居する。寛文6年(1666年)2月3日に死去した。享年78。