松前慶広
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文17年9月3日(1548年10月4日) |
死没 | 元和2年10月12日(1616年11月20日) |
改名 | 天才丸、新三郎(幼名) |
別名 | 海翁(号) |
諡号 | 永泉 |
戒名 | 慶広院殿海翁永泉大居士 |
墓所 | 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
官位 | 従五位下、民部大輔、志摩守、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 安東愛季→実季→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 蝦夷松前藩主 |
氏族 | 蠣崎氏→松前氏 |
父母 | 父:蠣崎季広、母:河野季通の娘 |
兄弟 |
姉(南条広継室)、蠣崎舜広、明石元広 慶広、蠣崎守広 |
妻 | 正室:村上季儀の娘 |
子 |
盛広、忠広、利広、由広、次広、景広、安広、 満広、娘(喜庭直信室のち津軽信建正室) 娘(下国広季室) |
松前 慶広(まつまえ よしひろ)は、蝦夷地の戦国大名。松前藩の初代藩主。旧字での表記は慶廣。
生涯
豊臣政権期
天文17年9月3日(1548年)、蠣崎季広の三男として大館(松前)の館山城で生まれる。天正10年(1582年)、父の隠居により家督を継いで当主となる。なお、家督相続には天正11年(1583年)説もある。
比内地方の浅利氏解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し安東家中での発言力を確保する一方で天正18年に海路より独自に上洛して同年12月 (1591年1月)、 豊臣秀吉に謁見し、所領を安堵と同時に民部大輔に任官された。これにより名実共に安東氏からの独立を果たしたと見られている[1]。
天正19年(1591年)、九戸政実の乱には国侍として討伐軍に参加した。文禄2年(1593年)には、秀吉から全蝦夷地(樺太・北海道)の支配権を与えられた。朝鮮出兵にも兵を率いて肥前国名護屋城に参陣した。
徳川政権期
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康と誼を通じた。慶長4年(1599年)、姓を松前に改めた。さらに家康の臣従を示すものとして、「蝦夷地図」を献上している。慶長9年(1604年)、家康よりアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下、伊豆守に叙位・任官された。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には徳川方として参陣した。
元和2年5月(1616年)、剃髪して海翁と号した。10月12日に死去。享年69。長男の盛広は早世していたため、嫡孫である盛広の長男・公広が後を継いだ。
人物
- 松前藩の基礎を築き上げた名君として、その政治力を高く評価されている。姓の松前は、五大老の徳川家康の旧姓・松平の「松」と前田利家の「前」から取っている。
- 藩の繁栄を築くためには手を汚すことも辞さず、慶長19年(1614年)に豊臣氏に通じたとして、親豊臣派であった四男の由広を誅殺している。
脚注
- ^ 「松前藩」『藩史大事典』 第1巻 北海道・東北編、木村礎・藤野保・村上直編、雄山閣、2002年。慶広は天正18年9月 (1590年10月) に津軽海峡を渡り、同年末 (西暦では翌年初め) に上洛している。『新・国史大年表』 第4巻 (一四五六~一六〇〇)、日置英剛編、国書刊行会、2009年。