李雄 (高都郡公)

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李 雄(り ゆう、生没年不詳)は、中国西魏からにかけての武人。は毗盧。本貫趙郡平棘県李昌儀の兄。

生涯[編集]

東魏陝州刺史李裔(字は徽伯)の子として生まれた。537年、陝州が西魏軍の侵攻を受けて陥落し、李裔が戦死すると、李雄は長安に入った。李家は代々学問に通じていたが、李雄はひとり騎射を習った。兄の李子旦が「文を棄てて武をたっとぶのは、士大夫のすることではない」と責めたが、李雄は「古来から文武を備えない者で功業をあげた者は少ない。李雄は古人の志を見て、細かな章句を守らないだけだ。すでに文武を兼ね備えているから、兄が心配することはない」と答えた。

宇文泰のとき、輔国将軍を初任とした。達奚武の下で漢中の平定にあたり、興州を定め、汾州の少数民族の乱を討ち、前後の功績により、驃騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。北周が建てられると、爵位は公に進み、小賓部に転じた。後に再び達奚武の下で北斉軍と邙山で戦い、北周の諸軍が敗れる中、李雄はひとり自軍を保全して撤退した。武帝のとき、陳王宇文純に従って突厥阿史那皇后を迎えに行き、爵位は奚伯に進み、硤州刺史に任ぜられた。数年後、召されて本府中大夫となった。まもなく涼州総管長史として出向した。滕王宇文逌の下で吐谷渾青海に破り、功績により上儀同の位を加えられた。宣帝が即位すると、韋孝寛の下で淮南の平定にあたった。軽騎数百を率いて硤石にいたり、十数城を下し、亳州刺史に任ぜられた。

580年楊堅(隋の文帝)が北周の政権を掌握すると、召されて司会中大夫となった。淮南での戦功により、上開府の位を加えられた。581年、隋が建国されると、鴻臚卿に任ぜられ、爵位は高都郡公に進んだ。数年後、晋王楊広(煬帝)が并州に駐屯したとき、李雄は河北行台兵部尚書となった。1年あまりして、在官のまま死去した。

子の李公挺が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]

  • 隋書』巻四十六 列伝第十一