李秉岐

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李 秉岐
人物情報
生誕 (1891-03-05) 1891年3月5日
大韓民国の旗 韓国全羅北道益山郡
死没 1968年11月29日(1968-11-29)(77歳)
出身校 官立漢城師範学校
学問
研究分野 言語学(朝鮮語)・文学
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李秉岐
各種表記
ハングル 이병기
漢字 李秉岐
発音: イ・ビョンギ
日本語読み: りへいき
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李 秉岐(り へいき、1891年3月5日1968年11月29日)は朝鮮の時調詩人、朝鮮語学者。は嘉藍。本貫は延安李氏。朝鮮語の美しさを時調で表現し、消されようとする民族の誇りを守ろうとした。時調朝鮮語学の研究に大きな足跡を残す。

略歴

1891年3月5日、全羅北道益山郡礪山面源水里真絲洞570番地に生まれる。父は延安李氏の李採、母は坡平尹氏の6男6女の長男。父は弁護士として事務所を開設するなど、開化人であり、家は裕福であった。李は、厳しい祖父の命で新学問は学ばせてもらえず、漢文を学んだ。1906年12月5日、忠清南道光山金氏の娘、金洙と結婚する。梁啓超を読んで開化思想に憧れ、1909年、ようやく、全州公立普通学校に入学する。そこでの成績がよく、6ヶ月で卒業すると、官立漢城師範学校に入学した。ここで周時経から朝鮮語文法を学ぶ。官立漢城師範学校を卒業すると、全羅南道南陽の学校、全州第二学校礪山公立普通学校などに教師として赴任し、教鞭をとる一方、古文献を収集して時調を研究し始める。

1919年三・一独立運動後、上京する。李が朝鮮語の研究活動を公に行うのもこの時期からである。1921年権悳奎任暻宰らと朝鮮語研究会を組織し、1922年東光学校を経て徽文高等普通学校で教師を務め、国語教育に力を注いだ。李は1906年から死ぬまで日記を付けているが、始めは漢文で書いていたものの、1920年からはハングルで書いている。ここに、李の朝鮮語を守りたいという意思を見ることができるだろう。1925年頃から時調を発表しはじめ、1939年に『嘉藍時調集』を出版する。限定300部であったが、たいへんな反響であり、鄭芝溶も李の時調に触れ、絶賛した。1926年、李は「時調会」を発起し、1928年に「歌謡研究会」と改称して組織を拡大させながら時調の研究に励んだ。

1942年10月22日、突然、刑事が李宅を訪れ、李を連行した(朝鮮語学会事件)。これにより、李は咸鏡刑務所に送られ、1943年9月18日に起訴猶予で釈放されるまで獄中で過ごす。その後、故郷に戻ってひっそりと暮らした。

1945年8月、朝鮮は解放を迎える。李は再び時調の創作と国文学の研究に打ち込むようになり、軍政庁の編修官からソウル大学校檀国大学校新聞学院国民大学校東国大学校淑明女子大学校などで教鞭を執る。朝鮮戦争が起こると、収集した書籍をトラックに積んで故郷に避難する。1952年全北大学校の文理大学長に就任する。

1956年頃から体調を崩し始める。1957年10月9日、ハングル記念式に参列した帰り、脳溢血で倒れる。療養のため、一切の教鞭を断って、故郷に引きこもり、余生を送る。1968年11月28日の昼、李は倒れ、夜中午前1時、息を引き取る。その遺骸は全羅北道芸総葬で葬儀が取り行われ、生家の裏山にある墓に埋葬された。

1969年、全州市の多佳公園に「嘉藍詩碑」が建つ。李の生家は1973年6月23日、全羅北道記念物第6号に指定された。

年譜

作品

  • 1939年、『嘉藍時調集』(文章社
  • 1940年、『歴代時調選』(博文書館
  • 1940年、『仁顕王后伝』(博文書館)
  • 1948年、『意幽堂日記』(白揚堂
  • 1948年、『近朝内簡選』(国際文化館
  • 1957年、『国文学全史』(新文化社、白鉄共著)
  • 1861年、『国文学概説』(一志社
  • 1966年、『嘉藍文選』(新丘文化社

脚注