周時経

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周時経
各種表記
ハングル 주시경
漢字 周時經
発音: チュ・シギョン
日本語読み: しゅう・じけい
ローマ字 Ju Si-gyeong
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周時経(しゅう じけい、1876年12月22日 - 1914年7月27日)は、大韓帝国の言語学者である。

略歴[編集]

本貫尚州、名前は「時経」で、初名は「相鎬」、当て字は「한흰메、한힌샘」などがある。 「한흰메」と「한힌샘」を漢字で言うと「太白山」と「白泉」である。在野学者である周鶴苑の4男2女の次男に生まれ、12歳には仲父である周鶴萬の養子になってから漢陽に上京。李会鍾書堂(書堂:寺子屋)でおよそ4年間漢文を学ぶ。漢文を学びながら、返ってハングルの必要性を悟ってハングル研究を決心するきっかけになる。1893年6月から培材学堂の朴世陽鄭寅德から数学・万国地誌・歴史・英語などの新学文を学び始める。文明各国は固有の文字を使ったりすると聞いて自国語の重要性をなおさら悟るようになる。この時期からハングルと朝鮮語を研究し始め「国語文法」と言う本を書く。この「国語文法」は1897年に完成するが出版せず、以後様々な講義の基礎資料として活用される。

1895年、徐載弼李完用李商在李儁尹致昊李東寧李承晩(=韓国の初代大統領)と共に李氏朝鮮の開化派による運動団体「独立協会」を立ち上げ、1896年4月7日から発行した初のハングルのみの新聞である「独立新聞」の会計・校補員(=編集局長)に任命される。綴字法定立ため、社内の「国文同式会」を組織。この時期から主張したパッチム理論などは1933年ハングル綴字法統一案にそのまま受け入れ現代ハングルになる。現代ハングルと現代朝鮮語・北朝鮮語の文法と綴字法の歴史は「国文同式会」から始まる。

1896年、政治団体である「協成会」の発起者として李承晩などと共に民衆教化運動をし始める。1897年、培材学堂の万国地誌学科を卒業。主に活動している「独立協会」が当時の朝鮮政府と摩擦が起し、1898年からには政府の弾圧を避けるため身を隠す。しかし、ハングルへの研究は続け、彼の初期著書である「大韓国語文法(1906年)」・「国語文典音学(1908年)」が刊行されるに至る。

1907年7月、朝鮮政府によって「国文研究所」が設置され、その中心研究委員として抜擢される。この時期に提出した綴字法案などの11個項目は日韓併合後の朝鮮総督府に引き継がれ、その後、ハングル学会によっても正式に採択(1933年)され現代ハングルの綴字法への基本になっている。

1908年8月、尚洞青年学院の講習所で「国文研究会」を発足させる。この「国文研究会」は「朝鮮語学会」・「ハングル学会」の前身である。

31歳頃にはハングルに関する当代最高の権威者として学校・講習所・学園・研究所など20個所以上の場所でハングルを講義するようになる。その結果、多くのハングル学者は彼の弟子から出るようになる。

1911年頃、「百五人事件」など、独立運動や啓蒙運動が厳しくなってから中国国外亡命を決心する。1914年7月、夏休みの間故郷を訪れ家族に別れを告げてからソウルに到着、亡命準備途中、急病により1914年7月27日午前6時、自宅で亡くなる(39歳)。

周時経の弟子[編集]

1912年4月から1930年2月まで朝鮮総督府は「普通学校用諺文綴字法」「諺文綴字法」等を制定した。「諺文綴字法」の製作に関与したのは、日本人学者の西村眞太郞(総督府通訳官)・小倉進平京城帝国大学教授)・高橋亨(京城帝国大学教授)・田中徳太郞(総督府通訳官)・藤波義貫(総督府通訳官)と朝鮮人学者の張志暎(朝鮮日報文化部長)・李世楨(進明女子高等学校教師)・権悳奎(中央高等学校教師)・鄭烈模(中等高等学校教師)・崔鉉培(延禧專門学校教授)・キム・サンヒ(毎日新報社編集局長)・申明均(朝鮮教育協会理事)・沈宜麟(慶尚師範学校)であるが、これらの人物はキムサンヒ・申明均を除いて周時經の弟子とされる。特にこの委員の「高橋亨」はカナダ人James Scrath Gale(韓国名:奇一)と共に1909年から周時経の弟子として朝鮮語を学んだ。

ハングル学者の多くが彼の弟子だが、その中で彼が主管した朝鮮語講習院高等科1期首席卒業生(1914年3月)である「崔鉉培(1894∼1970)」と彼の首弟子である「金枓奉(1889∼1958)」はそれぞれ韓国と北朝鮮のハングルに関する最高権威者になった。日本併合時代の弟子たちは「朝鮮語学会(1921年)」を組織し、1933年に朝鮮語綴字法統一案한글맞춤법통일안」を完成させ、1988年まで用いられる。

著書と学問の特徴[編集]

主な著書として、「말의소리(1914年)」・「国語文典音学(1908年)」・「国語文法(1910年)」などがある。これらの著書は、横書き、分かち書き、語幹と語尾の分離、同音並発、初声とパッチムの定立、母音の移動、および頭音法則を説明し、世界初といわれる直素分析法(IC分析法)を創案して、ハングルを説明している。この句文図解と形態の基本単位である「늣씨語素、morpheme)」、発音の基本単位である「고나音素、phoneme)」の発見は世界初といわれる。特に、朝鮮語は「表の意味」と「真の意味」が違うところまで説明している。

彼の学問は数理学的に構成され、数学の(=TERM)と演算子(=OPERATOR)に似ている概念語幹語尾を分け、項に当たる語幹のパッチムは複合子音になり、語尾には母音が増えるようになる。朝鮮語の文法は、音節ではなく子音または母音の一つ一つによって決められるとし、幾何学の図のように語幹と語尾を並べ、X軸とY軸が交差するように語幹と語尾が交差することを説明している。

アリストテレス時代から始まった名詞動詞などの品詞論・文法論によらず、彼は数学的知見を基にハングルと朝鮮語を研究した。これは彼が語学だけではなく、幾何学を専攻したからである。文法以外の綴字法や理論は当時から認められ、用いられるようになる。しかし、一般的にユニークと評価される彼の文法理論だけは1970年代まで継承されずに放置された。こののち、外来文法理論で発達したハングルと朝鮮語の文法は理論と現実が合わない問題を解決するため彼の理論が再導入された。現用されている朝鮮語の文法は、1985年度に成均館大学で周時経の「統辞論」の基づいて作り出されたものである。

その他[編集]

語学的には、中国語・日本語・英語の専門家レベルとしてハングル研究時代から日本人・カナダ人と意思疎通に問題がないと記録には残っている[要出典]。他の著書として中国人・梁啓超の「安南亡国史」を翻訳し「越南亡国史(1907年)」を刊行するほど外国語に得意だと記録には残っている[要出典]。宗教は民族宗教である「大宗敎」で、名前までハングルである「한힌샘」に変えるほど民族主義者でもある。柔らかな性格で真面目な生活をしたと記録には残っている[要出典]。「한글:ハングル」という名称を始めて作り出した本人として異見なしにみんな言われている[要出典]

1980年、大韓民国建国勲章大統領章追叙。