杉政人

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杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年8月13日 - 昭和26年(1951年11月19日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった[1]

経歴[編集]

海軍機関学校10期。少機関士(機関少尉)として日露戦争に出征し、旅順港閉塞作戦に2度参加している。呉海軍工廠長、軍需局長といった要職を歴任し、機関科出身将校としてはじめて海軍艦政本部長に就任。機関科将校としては異例の出世であり、「海軍機関科史上初の大将の最有力候補」といわれた。しかし本部長在任中に友鶴事件が発生し、引責辞任・予備役編入となった。このため初の機関科出身の海軍大将の誕生はならなかった。制度的には大正14年以降、機関科出身であろうと大将昇進が可能であったが、海軍史上において機関科将校の最高位は機関中将、或いは中将に終わった。

年譜[編集]

栄典[編集]

著作[編集]

  • 『薊 : 杉政人遺稿』杉敏子, 1957.10

脚注[編集]

  1. ^ 『帝国海軍士官入門』p.217

参考文献[編集]